心理臨床家の矜持とおもしろさ
今回とりあげる文献はこちら
Meltzer, D. (1968/1994) The relation of aims to methodology in the treatment of children. in Sincerity and Other Works. 170-176.
「子どもの治療における目的と方法論の関係」といったタイトルでしょうか。ハウツーっぽいタイトルですが、中身は全然違います。臨床家という仕事の本質を抉り出し、臨床という仕事の矜持とおもしろさを思い出させてくれるような話です。
ではまず要約してみましょう。
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ある患者(分析6年目の成人男性)が見た夢
…彼はレインハットを被った背の高い男の後について海に入っていくところだった。遠くに牛乳瓶があるようで、浮いているか、あるいは沈みかけていた。水深はどんどん深くなり、彼は次の瞬間には足が着かなくなって水流に押し流されてしまうのではないかとパニックになった。
同じ患者が9か月後に見た夢
ボール先生が患者の病棟を非公式に訪ねてきた。彼は別の科の新任教授のようだ。患者はたいそう喜んだが、少しだけ緊張してもいた。ボール先生は患者が大いに称賛している人物だったからだ。高潔で、患者に対して献身的で、すばらしい臨床経験を積んでいた。ただ、患者とは専門領域が違うのだが。二人の看護師が少々イラつきながらもボール先生を丁寧に歓待した。彼らは中年で、性的な魅力はないが、有能で人当たりがよい。
子どもの心理学的な治療などというものが生じてくる社会学的な光景とはいかなるものであろうか。誰が心配しているのだろう。それを織りなす動機、価値観、関係性、関心とはなんだろうか。
まず子どもはいまだ反復強迫に支配されており、未来を考える能力は限られていて、病んでいれば信頼を持つ力も弱い。親は子どものことも考えているが、親自身や他のきょうだいの人生もあるし、世間体や親自身の親への申し訳も立てなければならないし、自分の子育てが悪かったという罪悪感を和らげたいとも思っている。コミュニティあるいは各種機関は、統計と金銭と正常性の論理で動いており、要するにその子どもの問題が統制可能かどうかを気にしている。圧縮していえば、子どもは苦痛の除去を、親は保証を、コミュニティは統制を求めている。
治療者が仕事を任せてもらうためにはこれら三者の要求にある程度応えなければならない。子どもには苦痛を表現し、経験するための設定を提供することで、苦痛の緩和を提供できる。問題は治療可能だと示唆することで、親には保証を提供できる。問題を面接室に収集することで、事態は統制しうるという見通しをコミュニティに提供できる。しかし、これらは治療者の目的には何も触れていない。単に「営業中」と言っているようなものである。お客さんに心地よくすごしてもらうことは大切だが、それは私たちの目的を追求し、方法を活用することを許可してもらう前提条件に過ぎない。
治療の目的と方法について、私は当たり前のことしか言うことができないが、どのように考えれば、治療の目的と方法を考えることができるようになるのかを話さなければならないだろう。そこで、最初の患者の夢に戻ってみよう。
最初の夢ではまだマズいところがあることが明瞭に示されている。彼はその夢で、よき父性対象に対して、「父さんの跡を継ぐ」関係にある。父に追従することが目標(牛乳瓶)になっている。私と彼はこのレインハットの男についてすでによく知っていた。その起源は彼が子どもの頃に観た「我は海の子」にあるのだ。また私たちは、「足が着くtouching bottom」というのが肛門マスターベーションであり、投影同一化における隠れ家を意味していることも知っていた。さらに私たちは、牛乳瓶が離乳を目標として受け入れることを表していることも知っていた。しかしながら、「押し流される」恐怖が意味するのが、彼自身の情熱的な関心(言わば目的)によって押し流されることであると明らかになるまで、数セッションにわたって連想素材と転移の素材を追っていく必要があった。
要約すれば、彼が「父ちゃんの跡を継ぎ」、すなわち目標に到達したかどうかを気にしている限り、彼自身の関心と欲望を追求することには臆病になるし、つらくなると「父ちゃん」に投影同一化するというやり方を諦める決心もつかない。彼の人生の目標は「父ちゃんのような、本当の男になる」ことだった。
9か月後の夢を見てみると、全く違う光景が私たちの前に広がる。ボール先生は称賛される人物として現実に存在していることとか、最近教授になったことといった事実に惑わされず、そこには睾丸への言及があることを認識せねばならない。この性器的父親に対する患者の関係はよりおとななものであり、「跡を継ぐ」関係ではなく、「後押しを受ける」関係である。患者の女性性が示す証拠に注目しよう。すなわち、二人の中年の看護師のことだが、これらは以前よりも統合されている。夢の中で目標を示唆するものは何もなく、ただ目的を示している。内的対象が示す原理に鼓舞されながら、自分自身の関心を追求し、自分の仕事に従事するという目的である。その内的対象は今や、ボール先生と教授の椅子という結合対象となっている。
この領域で働く職業人は誰もが様々なところから様々な影響を受けて成長していく。フロイトが「マゾヒズムの経済問題」で指摘したように、新たな影響は親イマーゴの性質を変えるが、その影響を与えた人物が取り入れられるとは限らない。これは、超自我の修正が原対象への愛と両立不可能ではないことを理解するうえで非常に重要である(考えが変わっても、親を嫌いになるとは限らない)。したがって、ある人の内的世界における内的対象からの後押しは、自我の関心や欲望と両立不可能である必要は全くないのである。外的な親や師との関係においては、そこが両立不可能になってしまうことは容易に起こるかもしれないが(使用する理論や技法が変わるとスーパーバイザーとうまくいかなくなるかもしれないが、そのスーパーバイザーから教わった臨床感覚は内的資源として残り続けるとか)。
二番目の夢を思い出してみよう。ボール先生は思いがけず、非公式に、フラっと訪れた。しかし、二人の看護師は些か緊張気味であるにもかかわらず、患者は彼と会えたことを喜んだ。ここに見られる超自我不安の不在(もっとシンプルに言えば、ある種の水くささがないこと)は、目的と方法について考えるために求められる特質である。
私たちはどこに辿り着いただろう。私は子どもの治療において目標というものは存在する余地がなく(お客さんである三者の目標がてんでバラバラなので)、あるのは目的だけだという決意のもとに話を進めてきたようである。しかし、目的というものは個人の関心や欲望と同一のようであり、言い換えれば、子どもの治療というものは、それが治療者の関心を捉え、専門的な欲望を満たす限りにおいて続けられるべきであるということになりそうである。そして、方法論というものは、個人の内的対象の検閲を通過するであろう何かを意味する。このため、技法の原則を破ること、わけても自分自身の技法の原則を破ることは、つねに不安と罪悪感を伴うのである。同様に、外的圧力に屈服して、個人の関心と欲望の埒外にある目的を強要されるような形で治療が行われる場合も、不安と罪悪感が伴うのである。
だとすると、私たちが働いているフィールドとはどのようなものなのだろう。そこで働く人々が、自身の関心と欲望に従い、自身の方法と技法を遵守するようなフィールドというのはいかなるものなのか。明らかなのは、個人の責任が最大化され、結果の論証可能性は最小化されているようなフィールドだということだ。論証可能性が最小化されているということは、私たちは運を天に任せるしかないということだ。いずれは自然淘汰のようなものか、何世代にもわたる統計データによって、誰が正しく、誰が間違っていたのか、何がなされ、何がなされなかったのか、少なくとも歴史家にとっては明らかになるだろうということに希望を託して。それまでの間は、本当のところ、それらのことは問題ではない。なぜなら、それは誰にもわからないからだ。私たちはみな、自分で考え、取り組んでいくしかない。私たちはみな、自分はわかっていると思っている人々が決してリスクを冒さないところで、リスクを冒さなければならない。表記法、技法、理論などといったその他の違いは大部分、使っている言葉の違いであって、最終的には私たちは「同じ船に乗り合わせている」ことを認識すれば、親しみを覚えざるを得ず、それらの違いには橋が架けられるだろう。
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要約は以上です。
なんともプロフェッショナルの自覚を鼓舞される文献ではないでしょうか。
この文章は子どもの精神療法に関する専門家の会合で話されたものなので、子どもの治療が題材になっています。しかし、ここでメルツァーが言っているところの、「プロフェッショナルというのは、内的な矜持に基づいて責任を引き受け、自分の考えで仕事をしていくものだ」という哲学は、子どもの治療に限らず、専門的な仕事をするすべての人に訴えてくるものがあるでしょう。
ここでメルツァーが「目標」と言っているのは、外的基準からの要求ということです。そこにはお客さんの当面のニーズも含まれるわけです。
それに対して「目的」と言っているのは、内的な矜持や哲学から導き出されたものです。お客さんの当面のニーズとは別に、プロとしてなすべきことです。それをなす「べき」と考える基準は自分の中にしかありません。それゆえに、熱意と関心をもって取り組むことができます。
その判断は専門家同士で結果的に一致することもあるでしょう。しかし、それをなす理由が、他の専門家がそう言っているから、ということならば、それは「目標」の追随になるでしょう。基準が外にあるので、熱意と関心は生まれません。そういうことになっているからそうする、ということです。
同様に、独自性があるように見えるものでも、それが「他人と違うことをやる」という理由でなされているなら、基準が他人の行動という外的なものになっているので、「目的」の追究というよりも、逆張りが「目標」化しているということです。独自性の本質は、他人と違うことにあるのではなく、自分で考えてやっているかどうかにある、ということもできるでしょうか。
しかし、判断基準が自分の中にしかないならば、独断や独善になってしまうのではないでしょうか。治療者の欲望だけで治療をするなど、クライエントの権利の尊重という観点から言えば、もってのほかではないでしょうか。
メルツァーの言葉選びが刺激的なので、そのような論争を巻き起こしそうですが、ここでは社会的な合意形成と臨床家の内的体験とを分けて考える必要がありそうです。
社会的な合意形成を丁寧に行うことは重要ですし、メルツァーもそれをやらないとそもそも仕事をさせてもらえないと言っています。クライエントやコミュニティとの対話を通じて、こういうことに一緒に取り組んでいきましょうという合意を得ることは基本的前提です。
そういう社会的な水準とは別に、臨床家の内的な体験として、その仕事を引き受けること。お客さんや関係機関に「お引き受けします」と言うのとは別に、臨床家の心的現実として、仕事を引き受けること。この原動力を「欲望」と言っているのでしょう。そういうことは、それを探求してみようという興味深さが見いだされなければ難しいからです。
このあたりの話はEBM(エビデンス・ベースド・メディスン)に関するよくある誤解を連想させます。EBMとは本来、エビデンスに基づいて臨床判断を行うことです。対人援助に関するエビデンスはそのほとんどが統計学的結果です。統計学的結果は個別事例における判断の正しさを保証しません。したがって、目の前にいる患者の治療をどうするか、という判断は、その臨床家が考えて決めるしかありません。その判断材料として、エビデンスをちゃんと参照しましょうというのが本来のEBMです。この意味でのEBMならば、エビデンスは「目的」に奉仕するために利用されています。
しかし、エビデンスから個別の臨床判断が必然的に導き出されると想定するとしたら、エビデンスに沿うことが「目標」になっています。
「目標」の追随は、外的基準という梯子を外されると足場を失って身動きが取れなくなります。外的基準に振り回される働き方はバーン・アウトもしやすいでしょう。「目標」を達成できたとしても、外から次の「目標」を与えられない限り、何を目指せばいいのかわからなくなります。いつまでたっても誰か・何かの真似から抜け出せないということです。
ここで、超自我の修正が原対象への愛と両立不可能ではない一方で、外的な親や師との関係においてはそこが両立不可能になってしまうとメルツァーが言っているのは含蓄があります。師から教わる経験は貴重ですが、師のようになることが「目標」になり、師のポジションを引き継ぐことが「あがり」になると、師の人物像をそのまま取り入れることになります。ここで師と違う考えを持つと、師の人物像の取り入れと矛盾をきたし、取り入れたものを排出せざるを得ず、師との間で得た支えを失います。このとき、内的対象=超自我との関係が成熟していなければ、振り出しに戻るようになって、自立は難しくなります。
師から教わる経験の中で、師の人物像の取り入れではなく、超自我の修正が起こり、内的対象=超自我との関係が、超自我理想からの後押しを受けるような成熟した関係になっていくこともあります。すると、自分なりの考えができてきて、それが師の考えと一致しなくなっても、それは師との訣別と取り入れたものの喪失ではなく、単に自立のときだということになるでしょう(師の側でそれを訣別と受け取るような不幸な師弟関係あるかもしれませんが)。
このように考えてくると、「目的」を探求することにこそ、私たちの仕事のおもしろさがあることがわかるでしょう。内的な哲学に基づいて、自分で考え、判断し、責任を引き受ける、などというとなんだか重々しい感じがしますが、そこには探求と発見の喜びがあります。
そして、「目標」がどれだけ喧伝されていても、結局のところ、一つ一つの事例、一人一人のクライエントにおける臨床判断は、自分なりの「目的」に基づいて取り組むしかないと腹オチしたならば、一人一人の臨床家がそれぞれパイオニアであるという誇りを持つこともできるでしょう。