獅子は千尋の谷に
今回取り上げる文献はこちら
Meltzer, D. (1968/1994) An interruption technique for the analytic impasse. in Sincerity and Other Works. Karnac. 152-165.
抑鬱ポジションの入口における頑固な行き詰まりを突破するため、一時的な分析の中断を導入するという技法について述べた論文です。中断といっても週5回でやっていたものを週1回程度に減らすということですので、元々週1回以下でやっていた場合はどうするんだという感じですが、案外応用可能性のある技法かなとも思います。ではまず要約です。
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抵抗は解釈によって緩和されるはずだという信念を持っていると、難治性の抵抗があるということを認めがたくなってしまうが、それはある。
たとえば、数年間の分析の進展の後、抑鬱ポジションの入口に達したところで分析が全く進まなくなる。いったん終結して、後にまた再開しても、同じところで躓く。社会適応は申し分ないところまでいっていて、苦痛を伴わずに性的関係を持つこともできる。しかし、社会化されたわけでも創造的になったわけでもなく、単にそうした現実活動が乳幼児的転移に汚染されなくなったということであって、自己中心性はかなり温存されており、内的対象との取り入れ同一化に失敗しているのである。患者は分析を終えてもいいと思っているし、その意味で分析家の方が患者にしがみついていると思っている。そこで、おとなのレベルでは分析家と患者の相互理想化という雰囲気を醸しながら、乳幼児的テーマが奏でられる。こうやって分析を終結することが実際のところ多いのではないかと思うし、そうでなければ消耗戦に突入するか、妥協案としては年長の分析家に紹介するということだが、そんな年功に頼ったやり方は分析過程という概念への冒涜である。こういう状況に対して中断技法を提案しようというわけである。
抑鬱ポジションの入口に達しているわけだから、分裂と理想化のワークスルーはすんでおり、よさとわるさの仕分けは確立している。転移においても現実においても対象への投影的依存(トイレ乳房)が作動するので、対象へのしがみつきは生じるが、分離不安は自覚されない。このときまでには、そのような乳幼児的過程を患者も洞察している。しかし、そこから創造的な洞察に患者自ら達することはない。そこからの進展があるとすれば、分析をやめると威嚇したり、分析家が患者を支配していると責め立てたりという嵐のような時期を経た次の長い休暇の後だったりする。そこでそういう進展がなければ、相互理想化に持ち込もうとすることになるが、それは基本的にはおとなと子どもの違いの否認ということである。
ここで、分析家から「自由になりたい」という執拗な要求と、密かに終わりなき依存状態に安住しようとする行動との揺れ動きにおいて重要な役割を果たしているのは、内側と外側の混同である。また、全体対象水準における性器的エディプスコンプレックスは、抑鬱ポジションの入口が決定的に突破されるまでは、転移において本当に姿を現すことはない。
抑鬱ポジションの入口において、分析家は高度に洗練された対戦相手と格闘することになる。いわばその相手は分析家自身が稽古をつけてやった手練れだからである。誘惑と強制という乳幼児的テクニックが高度に構造化されてさらなる進展に抵抗するだけでなく、口達者な成人構造が分析的定式化や哲学的議論を活用(いやむしろ誤用)して、分析家のことを、分析への熱意を失って自分の世界観を流布しているだけだと非難してくる。このような反対勢力の台頭に直面して、分析家政府は議会の「質疑」で圧力に晒されるかのようだ。そこでは政府の政策の根拠が事細かに精査されるのだ。分析家の現実生活に関する情報は、良いものであれ、悪いものであれ、無関係のものであれ、転移に具象性を与えるために使われ、それ以上の分析の進展は妨げられる。結果としてその患者は分析家に関するあらゆる情報を何年も収集し続けることになるだろう。
この質疑の時間がどれほど脅威的で、患者が持ち出す証拠文書がどれほど分析家の現実生活の事実に迫っていたとしても、分析家の立場を維持することはできる。つまり、患者が持ち出す証拠はいずれにせよ二次的なものでしかないし、そこから患者が推論することは、せいぜい統計的な有意性しか持たないということである。最終的には、分析家は両性性という生物学的現実の上に確固として立ち続けることができる(逆に言えば、公的あるいは外的に確認できる情報さえあれば分析家に同一化できるという想定こそ、おとなと子どもの違いの否認によるものということ)。要するに、これが抑鬱ポジションの入口における行き詰まりであり、この種の行き詰まりに対してのみ「中断」技法を適用することができる。
この技法は進展が止まってから一年に満たないような行き詰まりには適用されない。ただし、進展を定義するには構造的観点を堅持する必要がある。つまり、乳幼児的自己における対象関係と、成人部分の性質である。防衛は節約のために集約されるから経済的観点は頼りにならない。この段階では協働的姿勢も記述的には大変優秀なので、その基準では、それにもかかわらず不誠実であるという問題を精査できない。外的適応という基準も、患者は分析で得たものを成人生活でワークするのだと言いながら、その実、終わりなき分析を期待しているので、頼りにならない。こういうことを言うと患者や読者から反論されるだろうが、それでも不屈の意志で構造的観点を堅持しなければ、行き詰まりは遷延し、分析家も患者も疲弊してしまう。
一つ注意しておきたいのは発生的観点である。行き詰まりが患者の生後2年以内の外傷体験に関連していることが明らかな場合と、背景に破局不安がある場合には、たとえ相互に疲弊してしまうことがわかっていても、中断技法を用いるべきではない。ただし、分裂排除された精神病が問題である場合は、その限りではない。その鑑別は困難だが。
中断が妥当だと判断されたなら、少なくとも1年かけてそのことを患者に説明する。この段階では患者は素材を十分に提供してくれるので、行き詰まりの構造を示すことは難しくない。難しいのは協働的姿勢の欠如である。それは記述的には全く問題ないし、不誠実さは現象として定義するのはほとんど不可能である。経験上有益なのは、患者による言葉の乱用をその都度、事細かに精査していくことである。たとえば、フロイトがバケツのジョークで示したような段階的否定が、心的現実の責任の回避を示しているかもしれない。つまりこんな感じである「仕方なかったんですよ。それに、それはXのせいです。とにかく、それでよかったんですよ」。
この中断の準備期間中も、中断が不要になるよう全力でワークしなければならない。それでも中断することになったなら、それは遵守されねばならない。私のこれまでのやり方によれば、休暇の少し前に中断を決め、その休暇から中断を開始するのがよい。中断期間中のセッション頻度は患者自身に決めてもらってもかまわないが、週1回を超えない範囲で、時間は固定にする。来たいときに来るというような曖昧な要望を出してくる患者がいたら、私は少々心配になる。セッション頻度が月1回未満になると、転移の構造が環境におけるその他の支持的人物たちへ拡散してしまうだろうと懸念される。そこで私は患者に次のことを明確にしておく。まず、この中断は私が引き受けている分析的責任を減じるものでは全くないということ、そして、少なくとも次の休暇までは中断を挟むが、行き詰まりが和らいだという証拠が納得のいくものになり次第いつでも分析を再開する準備があるということである。とはいえ、セッション頻度を「戻す」ことはきわめて慎重に行うべきだということを私は学んだ。現在では、一度に1セッションずつしか戻さないようにしている。私の経験では、セッション頻度を戻す(増やす)たびに陰性治療反応が起こる。一度に週5回まで戻すと、それは無意識的には中断という手続きの撤回と受け取られるのである。
抑鬱ポジションにおける抵抗は依存の否認であり、とりわけトイレ乳房への依存は認めがたい。これら母親的対象に強いてきた犠牲を認識するということは、それを癒していた父親的対象の存在を暗示することになるので、必然的に性器的エディプスコンプレックスに突入することになる。依存の否認を許している限り、分析は終わりのないものになる。
つまり中断技法とはネグレクトではなく剥奪であり、心的苦痛や傷ついた対象をより長く抱えることを課すのである。この経験によって、乳幼児部分はよい対象の存在を当たり前だと思うというテーマを、成人部分は心的現実の責任を引き受けられないというテーマを、突破することが望まれる。
中断期間は3~15か月で、行き詰まりのパターンが放棄され次第、分析が再開される。それまでは患者の不機嫌・不満は頂点を極める。どれだけうまくいっても、中断の必要性を患者が認めることは滅多にない。しかしながら、多大なる時間を浪費せずにすんだのだろうということは渋々認める。
この技法の危険性に対するセーフガードは分析家の誠実な自己分析である。分析の進展が止まっていることで自尊心が傷ついていないかということは容易に気づくことができるが、患者に対する好意や子ども扱いするような心配は、真の優しさ、称賛、熱意と容易に混同されてしまう。分析家と患者のおとなの関係と、乳幼児的な転移‐逆転移関係を区別しておくことは知的な防波堤となってくれる。そのためには患者の幼少期について詳細な再構成をしておくことが役に立つ。中断技法を考慮するようなときまでには、転移による記憶の混交はかなり緩和しているので、患者の両親が実際にどんな人だったのか、かなり再構成できるはずである。
正気‐健康‐成熟という「精神分析過程」で描写した進展過程をここでも強調したい。正気とは大規模な投影同一化を断念して対象から個体化することである。健康は抑鬱ポジションに入ることで得られる。成熟とはパーソナリティのおとなの部分の話であり、内的対象の取り入れ同一化と心的現実の責任というワークを経てようやく見えてくる。神経症の患者なら、抑鬱ポジションの入口に達したら終結が見えてくる。精神病や境界例の患者だと、そこからさらに何年ものワークが待っている。抑鬱ポジションの先へ行ったことがなく、おとなの部分の構造はほとんどないからである。このことからも、行き詰まりと難治性の抵抗の区別は転移の構造によってのみ可能だと示唆される。
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要約は以上です。
こういう革新的な技法を提案してしまうところが、英国協会から嫌われる一因にもなっていくのかもしれませんが、これは徹底した精神分析への情熱と、その先に見えてくる臨床的現実への対応ということから帰結する問題提起でしょう。
中断技法が必要とされる状況に関するメルツァーの説明を読むと、メルツァーが指摘している通り、通常は分析が十分に進展し、終結を考えてもいいとされる状況であると思われます。そこで彼は妥協せず、さらなる心的成熟へ向けて一歩踏み出すかどうかを分析患者に問うているわけです。
メルツァーの記述を読むと、彼が自立というものをいかに徹底して考えていたかがわかります。メルツァーに言わせれば、自分でできるようになることが自立なのではなく、自分でできていることが実は自分の独力でできているわけではないと自覚することが自立ということになるでしょう。
かといって、いつまでも「先生」「師匠」(つまり外的対象)に頼っていては、師匠の二番煎じ、腰巾着以上のものにはなれない。自分でやるのだけど、その創造の源泉は、自分の中の他者なるもの(内的対象)との対話にあるということ。それを自覚し、感取すること。実感すること。
そこに至ってようやく、精神分析の一つの目的であるところの、自己分析の素養が身につくというわけです。夢が導き手になってくれるという生活実感は、その一つの現われと言えるかもしれません。
また、技法の内容だけ聞くと乱暴な方法にも見えますが、それを適用するにあたってメルツァーが非常に慎重に、徹底して考えていたことがわかります。その記述の中で、現代でいえば外傷性の問題とされるような患者には、この技法を適用してはいけないと彼が認識していたことは、臨床の現実を見て考え抜いたことであることを示唆しているようです。
自分の足で立つ力があるのに、現状に甘んじてそれをしようとしない人に対してのみ、我が子を千尋の谷へ落とす獅子のような厳しさを見せるということです。臨床においては、クライエントの何らかのマズい行動を止めるときに、厳密に調整された必要十分な量の「怒り」をコミュニケートすることが事態を打開するという経験をすることがままありますが、それを連想する技法でもあります。
現代の臨床への応用についてはどうでしょうか。
メルツァーが言っている中断技法は、完全に患者と会わなくなってしまうということではなく、週5回でやっていた精神分析を、週1回程度を上限として、低頻度の定期セッションに切り替えるということです。すると、週1回でも頻度が多い方と言えるような現代の臨床現場とあまりにかけ離れた話のように思えます。
ただ、この技法の目的は何かといえば、いわゆる行き詰まりのように見えて、その実、難治性の抵抗となっている状況、より具体的に言えば、患者が自分では自立・成長したと思っていても実質的には治療者に延々と寄りかかっているようなマンネリ化した治療状況に対して、患者・クライエントを自分の足で立たせてみるということです。そうすることで、マンネリ化の要因をより明瞭に浮かび上がらせ、分析セッションにおいて取り扱えるようにするというわけです。
そのように考えれば、たとえば隔週や月1回で継続している分析治療において、ある程度適応の回復や生き方の変化が確かめられているという状況で、どうも最近セッションがマンネリ化してきているという感触がある場合に、突き詰めて考えてみるとクライエントが分析治療を継続している理由がどうやら治療を手放すことが不安だからというところにありそうならば、セッションを3ヶ月〜6ヶ月くらい空けてみる、という選択肢を考慮してみることができるかもしれません。
そうしてみると、その不安の背景にあるテーマが、久しぶりのセッションにおいて煮詰まった形で現われてくることがあるでしょう。またこのときも、メルツァーが述べたのと同様に、やれる力があるのに尻込みしているという問題なのか、継続中の分析治療がクライエントにとって生命維持装置ないしはセーフティネットとして機能しているのか、よく見極めることが肝要でしょう。後者ならば、マンネリ化という感触は、その治療がクライエントの日常生活の基盤の一部になっていることの現われかもしれません。この技法ないしは設定の導入は、専門家の間でもっと掘り下げられてもよいのではないかと思われます。
なお、本題からは逸れますが、患者がどれだけ分析家のプライベート情報を収集したとしても、分析家の立場を維持することはできるとメルツァーが言っているところは注目されます。これはもちろん、自己開示をしても大丈夫ということではないでしょう。しかし、分析治療が続いていけば、それに伴って好むと好まざるとにかかわらず、治療者は自己開示をしているものであるという現代的な観点を加味して考えると、そのような双方の自己開示を含む相互交流が進行している分析セッションにおいて、分析的交流を維持していく可能性を示唆していて興味深いところです。
メルツァーが言うところの、両性性という生物学的現実の上に確固として立ち続けることができる、というのは何を言っているのでしょう。おそらくメルツァーの言葉で言えば、結合対象の取り入れ同一化を体験的に知っているかどうかが肝だということだと思います。つまり、内的両親の性交の創造性と美を受け入れ、享受できることです。分析家がこれを知っていれば、患者がどれだけ外的な情報を集めようとも、分析家の内側で生じている分析的交流を外から知ることはできず、それは患者自身が内的に経験するしかないことなので、その点で、分析関係を維持することが可能だということなのではないでしょうか。
私の理解と臨床感覚で言えば、自己開示をしているかどうかというのはあくまで外的な事柄であり、それはそれとして、内的交流を志す分析治療を続けることはできるということでしょう。逆に言えば、治療者が内的に侵食されたと感じるような自己開示は、治療者の分析機能を毀損してしまうので、よろしくないということになるでしょう。