心的現実を引き受けるという意味での「責任」

 今回取り上げる文献はこちら

Meltzer, D. (1965/1994) Return to the imperative: an ethical implication of psychoanalytic findings. Sincerity and Other Works. Karnac. 142-151.

いろいろな訳し方がありえそうですが、「心的現実の法則が持つ倫理的含み」としてみましょう。メルツァーが使う「責任responsibility」という言葉の意味合いについて示唆を与えてくれる文献です。まずは要約してみましょう。例によって、直訳からはかけ離れたメルツァーの味わいを伝える要約を試みています。

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人々が互いのコミュニケーションを理解するためには、心的現実の法則に従っていないと知覚の正確性は担保されないことを心得ている必要がある。あらゆる宗教的信念は超自我構造の外在化だが、人間と神性との関係性は心的現実の法則の表現である。これは、神の全能omnipotenceと全知omniscienceは違うということでもある。神の全能は儀式によって宥められたり弱められたりするが、全知は揺るぎない(全能は妄想分裂ポジションにおけるいわゆる万能感、全知は抑鬱ポジションにおける創造性の源泉としての結合両親像)

ここで心的装置について簡単に整理しておこう。

心的装置:環境との相互作用で発達してくる心的機能全体を具象的に表現したもの

内的対象と自己の諸部分:心的装置は無意識的には内的対象と自己の諸部分からなると体験される。それらは身体内ではたらいており、それら自身の心的装置を持つと体験される。したがって心的現実の地理は無限に連なっており、その連なりは外的世界における時間の次元に相当する

全能と自体愛:全能は自己の一部が持つ性質で、自体愛活動により刺激され、自体愛がないと弱体化する

成熟と考える能力:自己のある部分の成熟性は考える能力で測られる。その能力はコミュニケーションのために言語を用いる能力と関連している

思考活動とよい対象の本源:考える能力はよい対象の本源primal good objectとの関係の関数である。よい対象の本源の性質は「乳房の中のペニス」(部分対象、原始的)から「結合両親像」(全体対象、成熟)まで幅がある(なので、primalは「原始的」というよりも、そこから様々なよい対象が派生してくる、よい対象の根本的な源泉のような意味合いだと思われる)

全知と対象の本源:よい対象の本源は真実を知覚し、理解することに関して全知であると体験される。一方、わるい対象の本源や自己の一部は、全知を主張する。あるいは、よい対象の本源は自己が考えることに力を貸すだけなので、ケチで知識を与えないと体験されることがある一方、わるい対象の本源は全知をひけらかし、知識(すでに考えられたこと)に関して豊穣の角であるために、自己が自ら考えることを阻もうとしていると体験されることがある。

成熟と統合:心的装置の成熟は自己と対象の様々な部分の統合過程である。統合は対象関係において分裂を手放し、全能を諦め、抑鬱ポジションの痛みを受け入れることによって進む。それらは外的・内的対象関係における投影と取り入れを通して行われる。

意識:心的な質の知覚器官であり、行動器官に対して優位である。自己の一部が意識を掌握し、行動(話すことを含む)を支配することがある。

社会の統合は芸術家と科学者(あるいは「芸術-科学者」)の考える能力を通じて作動していく。苦心の末に獲得された知は善きものであり、最終的には価値あるものであるという信念は「芸術-科学者」を特徴づける。知は悪用されることもあるが、問題は知そのものではなく、それがどのように獲得されたかである。

道徳的原理は超自我と結びついており、仮定法で表される。つまり「もしあなたが~~し損ねたら、〇〇があなたに対してなされるだろう(なされないだろう)」。一方、倫理的原理は心的現実の法則の中に見出され、命令形で表される。つまり、「あなたが~~しない限り、あなたは〇〇できないだろう」。

心的装置の概念から導かれる心的現実の法則は以下の通りである。

心的現実の第一法則:外的世界の対象関係の経験は、内的対象関係の構造によって制限される

心的現実の第二法則:内的対象の良性と悪性のバランスは、分裂排除された自己部分の統合によってのみ改善する

倫理学の関心は人間の行動を支配する原則はなにかということだが、メラニー・クラインの理論から言えば、よいとわるいの区別は乳幼児的な「分裂と理想化」に始まり、統合の進展にしたがって悪性と良性のバランスが改善していく。パラノイアのような破壊性が支配する心的装置では、一見まとまりがあるようにみえても、心的現実においては単にバランスを取っているだけであり、結びつきに強さはなく、不信と憎悪を孕む支配による結びつきである。よい対象の本源の領野においては、信頼と愛に支えられて、協力という統合的結びつきが促進される。

子どもは生まれたときは自分よりも統合が進んだ外的対象に囲まれているが、子どもの統合が進むにしたがって外的対象からの発達促進的影響は減っていく。子どもの統合が外的対象を追い越すと、子どもは外的対象から解体方向へ引きずられることになるので、付き合う外的対象を注意深く選ばなければならなくなる。ここで両親が降りなければならない役割を「芸術−科学者」コミュニティが引き継ぐ。学校、ギャラリー、分析オフィス、コンサートホール、図書館などが行きつけの場所になる。倫理的な含みは、私たちが外的世界において関係性を持つのは、他者との相互の投影と取り入れの機会であり、それは内的対象の幸せを願って選ばれなければならないということである。

このような問題において思慮深くあるためには、心的現実の否認を克服していることが重要だが、心的現実の否認とは潜伏期構造の主たる要因なのである。エリオット・ジャックスが「中年の危機」で述べたのは、成人期早期には子育てをするので、子どもとの接触を通じて心的現実との接触が生き生きと保たれるが、中年に差し掛かると、多くの大人が潜伏期に後退してしまうということである。しかも、このときは児童期のそれとは違って、貧困さが目立つのである(既存の権威と常識を鵜呑みにした保守的心性)

メラニー・クラインの理論は精神分析に価値の次元を導入した。精神分析が人間の無意識を明らかにしたことで、人間の自由意志は脅かされた(自分で選んだと思っても無意識的動機が関わっているので)。しかし、迫害性の痛みと抑鬱性の痛みという二極を想定することで、無意識における選択の自由ということを考えられるようになった(全能に支配され選ばされることと、心的現実を引き受けて自分で選ぶこととの違いだろうか)

ここに来て、私たちは懲罰的な含みを持たない「責任」について考えることができる。それは心的現実の法則を受け入れ、心的現実を引き受けているということである。この意味で責任を捉えるなら、子どもが未成熟ゆえにミスをしてしまうことに対して寛容になりながら、同時にその子が自らの心的過程に対して責任を持つということを考えることができる。

実際、抑鬱ポジションのワークスルーにおいて大変なのは自分を赦すことなのである。親や分析家は、子どもや患者を赦すが、子どもや患者が自分を赦すためには、もう二度と罪は犯されないという内的な確信が必要なのである。それはつまるところ、心的装置において結合両親像が構造化されるということであり、そこで初めて、独立した全体性というものが築かれる(内的対話が可能になると同時に、外的対象との経験を享受できる)

心的現実を引き受けることが人間の経験を決定づけるのであり、完全なる正義は対象関係の領野に広がっている。それは総体として心的生命感と呼ぶのがふさわしい。精神において、死とは「生きている時間」の喪失であり、潜在的に不死の妄想を抱く者にとってのみ、それは破局となりうる。

常識は表層しか見ない。価値あるものを侮蔑してもたまたまだと言い逃れするし、プライドを守るためなら無慈悲に暴れまわるし、それでいてメソメソ泣いてイノセントだと言い張る。そんなわけで常識は富める者からも権力によって欺かれるし、貧しき者からも俗物根性によって惑わされる。精神分析は下層を見る。抑鬱ポジションの外側では永久に続く惨めな取引によって富める者も貧しき者も劣化していくことを見定めながら、抑鬱ポジションの内側では気遣いと責任を引き受けようと苦闘する。至福はどこにもない。あるとすれば母親内部の赤ちゃんの生活に対する妄想的嫉妬空想の中だけである。しかし、メラニー・クラインが示したのは、喜びを経験するための重要な違いである。それは二つのポジションの敷居のところで取り組まれるものであり、価値の転換を要する。

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要約は以上です。原典は要約以上に圧縮度が高く、明確な論理的つながりを追うことが困難で、箴言的表現が散りばめられています。ここでメルツァーの「真意」を理解することは専門家にお任せし、私たちはむしろ、行間から迸る情動的な刺激を大いに楽しみましょう。

全体的な趣旨としては、心の構造に関する精神分析の理論的原則に立ち戻って考えてみると、心的な成熟というのは、迫害的な超自我由来の道徳不安とは独立した、自己の内から生じる責任を引き受けることであり、それが外界や他者との豊かな関係と交流に開かれるための決定的な要因であるということのようです。それを道徳とは区別して、倫理的な意味合いと言っているようです。自分が主体として独立している(内的対話があるので孤立とは区別される)ことから導き出される他者の尊重です。道徳律から来る「他人を敬うべし」とは似て非なるものということです。

メルツァーは最終的には「つまらん精神分析的ジョーク」だと自嘲するのですが、話は最初から全知と全能は違うという興味深いことから始まります。「全知全能の神」と言われますが、そこはいっしょくたにできないよと。「他者性」や「外部性」に対する信心深さと、不安と恐怖に焚きつけられたファナティックな信仰との違いとも関連しているかもしれません。

全知というのは、あらゆるものの源泉を指し示す名前であり、よい対象の本源と似たような意味合いでしょう。成熟とは、自分はすべてを知るわけではないと心得たうえで、全知に向けて好奇心を持ち続けることと言えるでしょう。一方、「自分はすべてを知るわけではない」から「これ以上考えてもしょうがない」という方向へ行くなら、全知に対して背を向けていることになるでしょう。またメルツァーは別の文献で、全知とは「これ以上知るべきことはないという態度」であると言っていますが、これは自己が全知と同一化した状態と言えるかもしれません。

それに対して全能というのは、迫害的な超自我不安に由来するもので、「掟を破ったら何をされるかわからない」という感情と結びついているようです。神罰に対する怖れから行動を統制することになり、儀式との繋がりが理解されるところです。

後で出てくる、道徳‐超自我‐仮定法という繋がりと、倫理‐心的現実の法則‐命令形という繋がりは、本当にそう言い切れるのかどうか何とも言えないところですが、不安や脅しに突き動かされているのか、それとも人間の精神に内在する原理から必然的に導かれることなのか、という違いに触れていることは確かでしょう。

心的装置について条項が並びますが、臨床的に興味深いのは「全知と対象の本源」のところでしょうか。昨今の大学教育の中で、教員の側は学生に討論を投げかけているつもりでも、学生の側は教員がいつまでも答えを教えてくれず、教員が言ったとおりにしたのにまた否定してくるという不満を抱くという類のディスコミュニケーションがよく見られるように思います。学生側のメンタリティとして、よい対象の本源が知っていることを分け与えてくれないケチとして体験されることが増えているのかもしれません。それに対して、教員側は(自分が全知だと考えるのはマズいですが)学生が自ら考えることを後押ししようとして、討論をもちかけているわけで、学生の中のよい対象の本源の働きを体現するような機能を果たそうとしているわけです。つまり、よい対象の本源の体験様式をめぐってすれ違いが生じています。

ここで、学生がよい対象の本源を気前よく答えを教えてくれないケチだと体験することの背景要因はなんでしょうか。一つには聞けばなんでも出してくれるインターネット世界の存在があるかもしれません。実際にはそうではないにしても、インターネット世界はともすると、あらゆることにはすでに答えが出ているという錯覚をもたらします。「もうあなたが自ら考えて発見することなどないんだよ」と全知を吹聴されているかのように体験されるかもしれません。つまり、インターネット世界がわるい対象の本源の現われとして機能してしまうことがあるかもしれません。こうして、わるい対象の本源から全知を吹聴されてきた学生は、よい対象の本源が学生の考える力を後押ししようともちかける討論を、答えを隠す意地悪として体験することもあるのでしょう。

このとき、メルツァーがわるい対象の本源と自己が結託しているという風には必ずしも描いていないことは重要でしょう。むしろ、そのような全知の吹聴によって、「自己が自ら考えることを阻もうとしていると体験される」ことがあると言っています。それならば、答えをくれないことに不満を抱く学生も、もしかすると心のどこかでは、自分の頭で考えてみたいと思っているのだけど、「もう答えは出てるんだから、あんたが考えたって意味ないよ」という声に抑圧されてしまっているのかもしれないという可能性を考えることができます。「自分の頭で考える」ことのはじめの一歩が、「いかに自分は考えることができないか」という気づきかもしれないという、臨床における地道さはあるにしても。

話は心的現実の法則へと進みますが、一言で言えば、私たちは内的世界の統合具合の範囲でしか外的世界を享受できないので、内的世界の統合を改善させましょう、ということのようです。子どもが小さいうちは親は子どもの手本になれますが、子どもが大きくなってできることや知っていることが増えてくると、親はもう自分だけでは子どもの手本になり切れないことを受け入れて、子どもの学びの場・相手をコミュニティや社会に開いていかなければなりません。これは、親の側が、自分が全知だったわけではなく、子どもの中の全知を一時的に引き受ける立場にいただけなのだと受け入れることです。あるいは子育ての最中にも、子どものふとした振る舞いや言動が、親の中の結合両親像の現われとして学びの福音をもたらしてくれたという経験も、親が子どもとの心的交流を維持していたならば、数多くあったことでしょう。

ここで、親の側が自らが全知であるというポジションを諦められないと、子どもに教えることはあっても子どもから教わることはないということになり、自らの心的現実において全知の源泉たる結合両親像との内的対話は否認され、潜伏期構造へと後退することになるのでしょう。そして全知の根拠は常識に求められることとなり、常識を当然のように押し付けるおもしろみのないオジサン・オバサンの完成となるのでしょう。

ところで、メルツァーが挙げている「行きつけの場」は、彼が生きていた社会経済的・文化的環境を反映しているようで、これを鵜呑みにすると、庶民には統合の道は閉ざされていると言いたいのかと文句を言いたくなりますが、大切なのは、心の糧となるような(つまり「内的対象の幸せを願って」)外的世界との交流が持てるところということでしょう。コンサートホールもギャラリーも俗物根性で利用されることもあるでしょうし、ライブハウスやバックストリートで外的世界に出会うこともあるでしょう。そう両極端をあげずとも、スーパーマーケットでの買い物も、分かり切ったルーチンワークと知らなかった外的世界の発見のハイブリッドです。

さて、話は道徳的次元と倫理的次元の仕分けを経て、懲罰的な含みを持たない「責任」のことに行きつきます。懲罰的含みを持つ責任は、以前エッセイでも取り上げたとおり、問題が起きた時に罰を受ける役割というような意味での責任、「私が責任取ればいいんでしょ!」と開き直るときの責任です。それは超自我不安の現われであり、自由よりも拘束と、選択よりも義務と、結びつくものです。

倫理的次元における責任は、心的現実の法則を受け入れ、心的現実を引き受け、自己を統合すること(内的対象は自己と分離していることを得心することを含む)です。心的現実すなわち自分の体験は自分の内的なものであることを受け入れることで、逆説的に、外的世界の「外部性」「他者性」と接触するチャンスを得ます(それを受け入れていないと、投影同一化によって、外的世界が内的世界の映しor移しになります)。体験の担い手が自分になり、体験の意味を自分で考え、自分の人生を自分で決める世界へと開かれます(その逆は、体験は周囲から押し付けられたものと体験され、周囲から意味を与えられても納得や喜びはなく、自分の人生は誰かに決められているという世界観です)。

ここで、人間を閉じた個体として捉えない昨今の考え方と、ここで述べている責任を比較してみましょう。人間は閉じた個体ではなく、生態系の一部をなすものと捉えると、主体や自己決定というのも錯覚であって、人間は自身の身体すら自己決定できないし、基本的には外部からやってくる「他なるもの」に接触し、影響を受け、それに応じて自分が変わったり、その変化が生態系の循環にまた波及していくという。この捉え方でいくと、ここで述べているような責任は、「人間様」が選択の自由にしがみつこうとする足掻きのようにも見えます。

しかしながら、精神分析における主体や個というのは、そもそも他者との関係の中にあるものと想定されており、それを自覚し受け入れることが、主体や個の確立に不可欠な要素だという考えです。そして、ここで述べてきた責任も、同じ線で考えられます。すなわち、心的現実を受け入れることで、「内部」の投影としての外界ではなく、本当の意味で「外部」と接触することが可能になるということです。この意味での責任とは、「他なるもの」との接触を体験として受け取る準備性のようなことです。

そしてこのように考えてくると、「子どもが未成熟ゆえにミスをしてしまうことに対して寛容になりながら、同時にその子が自らの心的過程に対して責任を持つ」ということの意味もわかりやすくなります。「オイタをしたらお仕置きです!」というのは懲罰的な責任です。その点では、子どもに寛容になっていいし、その意味での責任は問わなくていいでしょう。それよりも、子どもにとっては自分の空想世界だけに留まらず、外の世界と接触して体験の幅を広げることが豊かな発達のためには大事でしょう(その意味では、「オイタをしたらお仕置きです」の世界では、子どもは外の世界と戯れることに臆病になってしまいそうです)。そのためには心的現実を引き受け、外部との接触を経験として自分の糧にできることが必要であり、その準備性を責任と言っているわけです。

また、この意味での責任はやはり周り回って自己決定に繋がってきそうです。ただし、それは外部において思い通りに選べるという意味ではなく、外部との接触を自分の体験として糧にできるという意味で、自己決定なのです。外部そのものはままならないものであっても、やはりこの人生が自分に固有のものであるという感触であって、いわば自己決定感覚とでもいうものなのでしょう。そしてこれが、最後に触れられている「喜びを経験する」ための重要な要素になるのでしょう。

ここで至福と言われているのは、何もしなくても全てが満たされていて、一切の欲求不満がなく、全てをほしいままにしている状態と想定されているのでしょうか。そしてこれが、単に「胎児」ではなく、「母親の内部の赤ん坊」に対する「嫉妬妄想」だと言われることの一つの含みは、本当は実際の胎児でもそんな状態にはないということでしょう。存在しない万能状態なのです。

一方、喜びは実際に経験可能な情動です。ここまで考えてきた文脈で言えば、外部との接触を享受したときの情動と言ってもいいかもしれません。その準備状態が責任を引き受けているということです。

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