結合両親像における「結合」の意味

 今回取り上げる論文はこちら。

Meltzer, D (1963/1994) A contribution to the metapsychology of cyclothymic states. in Sincerity and Other Works. Karnac Books, 90-121.

「気分循環状態のメタサイコロジーへの寄与」といったタイトルでしょうか。もうかなり古い文献なので、ここでは当時の理論的な位置づけを詳細に辿ることはしません。それよりも、詳細な臨床例が載っていることがこの論文の魅力です。その中で、一体何に患者の攻撃性が向けられているのかを細やかに仕分けしていく様が味わえます。そこから見えてくるのは、結合両親像における「結合」のなんたるか、です。ではまず要約してみましょう。

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軽躁状態における内的対象関係の特質、とりわけよい内的対象との特異な関係について例証する。臨床例は30代女性。心気症の時期と、強迫的な時期と、軽躁的で性的に活動的な時期が交替して現れる。家族からの寵愛、父親とのハネムーン、家庭の凋落、家族からの分離、強迫的な性格の現われ、弱った母親の世話と理想化された父親への同一化、性衝動を自覚してからの強迫的な青年期、といった生育歴。

分析過程は六期に分けることができる。一期は分析家が理想の母親で夫が迫害的な父親になるか、分析家が迫害的な母親で夫が理想のペニスをくれる父親になるか、という二つの転移パターンが交替した。二期では母親‐分析家へのアンビバレンスが自覚されていく過程であった。それは、分析や仕事において奴隷のように忠実である一方で、強迫的に自宅を掃除したり飾り立てたりすることで防衛されていた。攻撃性は店員やバスの車掌向けられた。三期では内的な両親像を厳格な支配下に置こうとする、より強迫的な構造が明らかになった。両親像どちらにもアンビバレンスがあり、悪い関係は転移関係に、よい関係は家族関係に行動化されたが、1年ほどでそのバランスも崩れ、内的な攻撃性がよりはっきりと現れてきた。四期は羨望と貪欲が分析の中心であった。心気症をメインとしながらも、抑鬱から臨床的改善へと移行していった。五期はより性器的な水準でエディプス葛藤が扱われた。六期は終結期である。ここでは四期を詳細に取り上げる。

羨望による母親への侮蔑は父親転移のような様相で現れた。バターでできたペニスの夢など(ペニスへの口唇願望のようだが、まだどこから取ろうとしているのか不明確:ブログ著者注)。また、通り過ぎた医者の道具をいつの間にか持っているという夢などから、理想化されたペニスを内的対象から強奪しているという様相がわかってきた。転移関係においては、母親をイノセントにとどめ置く一方で、分析家を強欲でケチだとした(母親への羨望に対する防衛:ブログ著者注)。それらに対する罪悪感は、分析は自分のためではなく家族のために受けているのだという偽善で防衛された。しかし、薄汚いカフェで神から赤ん坊を授かったことに感謝するが、その赤ん坊は二つの乳房に変わるという夢から、母親‐分析家からもらったものを侮蔑しながら、それは父なる神からもらったものだとする力動を解釈することができ、患者も分析への感謝を経験することができた。だがそれは陰性治療反応としての分析の価値下げと心気症に続くというパターンがお決まりのものとなった。

内的母親から貪欲に奪った責任は内的父親に帰せられた。患者の夫は不幸にも焚きつけられやすかったので、容易にこうした投影の対象となった。これらの内的状況が分析されると、内的な両親の関係は改善したが、すると両親の性交を阻もうとする強迫防衛が現れた。それは夫や子どもが性的なことをしていないか強迫的にチェックする儀式として症状化した。こうした事態が分析されると、患者は抑鬱感情に触れることができたが、羨望が爆発した。幸せな家族を夢に見たが、彼らは数日のうちに様々な不幸に見舞われ、子どもは死んでしまうのだった。こうした攻撃に対する罪悪感は、そもそも羨望は分析家から投げ込まれたものだという空想で防衛された。たとえばこんな夢。ホイップバターを注文するが、店員が泡立てるのが下手なので、ヘビークリームのまま持ち帰って自分で泡立てる。これは分析的乳房の創造性を否認し、分析‐母親‐乳房は、神‐父親‐ペニスから与えられたものを運搬しているだけだとする空想である。つまり、乳房は受け手あるいは容器であり、豊穣、寛容、温かさを付与されており、ペニスは行為者あるいは実行者であり、強さ、忍耐、判断などが付与されていたが、それらは部分対象レベルで分裂されていた。ここで、内的な両親の性交というのは、乳房がペニスを保持することを意味するわけで、そこで生じる創造は激しい羨望を引き起こし、償いようのない大量殺戮の衝動を招いてしまうので、内的な両親の性交は恐怖の対象となるのだった。分析家の休暇中、患者は実家に戻ったが、それは躁的なものではなく、母親的人物の不在に耐えられないと自覚してのことだった。

ある二週間のプロセス。おかしな紋章のついた二つのパスポートを税関職員に見せる夢。パスポート‐乳房と、税関職員‐守護的父親。紋章‐乳首‐(乳房の中の)ペニスの示唆。翌日、以前露出症の人に遭った道を歩いてしまったこと、父親か兄と性交する夢、乳がんの疑いがある妹から詮索されているという被害感、不妊の女性を慰めようと「私なんて妊娠をやめられない」と言ってしまったエピソード。自慰空想の中で再びペニスを奪い取って父親にくっつけてしまって、奪われた母親への迫害感が現れたと解釈。翌日、夫が別の女性と岩地にかわいらしい小屋を建てていて、最初は嫉妬したが、むしろ相手の女性のことを心配する夢。患者はその小屋から、自分が赤ん坊の時にキャリーコットに入れられて天気のいい日に両親と訪れていた別荘を連想。赤ん坊の立場を受け入れて、両親の創造性‐性交を称賛していると解釈。別荘‐小屋‐修復された母親乳房は、岩‐抑鬱的母親乳房や、詮索する妹‐迫害的母親と対照的。患者はペニシリンとサルファ剤を同じ注射器に入れて混ぜるのは強力だが危険だと感情的に話す。ペニスと乳房の混合物である分析的ミルクを注入されることを怖れていると解釈。患者は分析家が分裂した人格で、分析が失敗に終わるんじゃないかと怖れていると話す。またしても、分析家の力‐創造性‐頭と、分析家の温かさ‐よさ‐乳房を分裂し、修復する力のないものにしてしまったと解釈。週末のセッションでは患者はほとんど怒っており、外の嵐を黙って見つめていた。

週明けのセッションではむっつりして不機嫌だった。前の週の展開を振り返ると、患者の態度はいくらか和らいで、擦り切れた男の子のズボンの夢と、女の子用スキーパンツと二つのスキーキャップの夢が報告された。キャップのポンポンは片方が垂れ下がっており、片方は立ち上がっていた。前の週、分析家から危険な混合物を注入されそうになって患者は怒りを爆発させたが、それは修復された両親像が一緒になると患者自身の両性性に触れなければならなくなるからだと解釈。少年部分の荒々しさが表に出ていたが、少女部分の方は二つのキャップ‐乳房の保護を感じ、女の子用スキーパンツ‐性的母親との同一化を楽しんでもいたのだ。翌日、若い母親が赤ちゃんを抱いている夢。患者は愛情と感謝に満ちた気分。しかしセッション後半、身体が石のようだと訴え、ドルイド教‐「自然崇拝の古代宗教(患者の連想)」‐ストーンヘンジの倒壊や修復を連想。分析家‐母親が、患者‐赤ちゃんを、理解し‐拾い上げたことに感謝するとともに、分析家‐母親が、患者‐赤ちゃんを捨てて宗教‐父親の方へ行ってしまうなら分析家を粉々に破壊すると脅してもいると解釈。なぜなら分析家‐母親が宗教‐父親の有能さを崇めているから(母親の内部に有能さを認めない:ブログ著者注)。翌日、患者は非常に迫害不安が強まり、分析をやめたいと言い、故人である義母を罵り、死んでしまった一人目の子どものことで苦悶した。翌日、患者は大幅に遅刻し、セッション終了間際にやってきて、子どもが患者の財布からお金を盗んで飲み込んで死んでしまうのではないかと不安になって、いったん帰宅したのだと話した。それを分析家に連絡しようと思ったが電話番号がわからなかったのだと。これは、患者が来なかったら分析家が心配するだろうということを、患者が初めて認めたことであった。週末のセッションは20分遅刻。バスが患者を待たずに行ってしまったからだと文句。分析家の頭‐乳房は患者に飲み尽くされたので、患者を取り残して行ってしまうか、毒しか出なくなっている(お金を飲んで死ぬ)と思っていると解釈。患者はカウチから飛び起きて用を足して戻ってきた。ペニスを吸い出しておっぱいをダメにしてしまったことを自覚しており、盗んだペニスは患者の中で悪いペニスになってオシッコし続けていると解釈(以前の排尿強迫症状との関連)。

夢の報告。患者と夫はスクーターに乗っていたが(患者が前)、夫が転落。夫の頭に腫れ物ができるが、中から白い脂肪が出てくる。レントゲンを撮る。患者はレントゲン画像をひったくって逃げ、自分一人で原因を見つけようとする。場面は替わって病院のような小屋に医師と看護師とともにいる。医師の診断は「骨髄芽球(白血球細胞の親細胞)」。患者は夫が余命宣告されたかのように反応。看護師は「ロケット吸引に不具合があります」と言う。患者はクリスマス飾りのしてある窓を見て「なんていいお天気。一年前は土砂降りだったのに」と言う。

夢の分析。分析(スクーター)は分析家と二人で始めるが、操縦するのは患者。分析家は性的な夫‐父親にとどめ置かれたまま。週末の分離は偶発的事故(夫の転落)とされ、外傷は分析家の頭に。しかしその中に創造的乳房(白い脂肪)を見出したので、羨望を掻き立てられ、その深部(レントゲン写真)を奪い取って逃げる。しかし内的乳房(小屋)には父親と母親(医師と看護師)がおり、真実を告げる。患者が盗んだのは乳房の創造的部分(骨髄芽球)であり、問題は彼女自身の羨望的貪欲(ロケット吸引)にあるのだと。この洞察は安堵をもたらしており、次の休暇(クリスマス)に向けて患者の自信になっている。というのも、前の夏季休暇には、「燃え盛る飛行船から死体が雨のように降ってくる」という夢を見ていたのだ(一年前は土砂降り)。

この二週間のワークの振り返り。患者は現実の母親との関係が改善しても転移における分析家への愛着が解決しないことを自覚した。分析家は内的乳房であり、母親でも父親でもあるからだ。「二つのパスポート」の夢にはペニスを含む乳房が示唆されているが、それは再び父親ペニスの理想化を導き、内的母親乳房は迫害的になった。それが解釈で修正されると、「岩地だったところに小屋が建つ」夢で、両親の性交の修復力への感謝と称賛、自分は赤ん坊であるという依存の認識が現れた。これが内的母親乳房に対する羨望的攻撃とその修復の一巡目である。しかし、「ペニシリンとサルファ剤の混合物」のエピソードで再びペニスを含む乳房への羨望と迫害が始まった。この乳幼児的憤りは反転したエディプス葛藤からくることが突きとめられ(「裏地が擦り減った」夢)、「母親と赤ちゃん」の夢につながった。これが攻撃と修復の二巡目である。「ストーンヘンジ」の夢でこれも終わるが、このときは赤ん坊の重みを暗に認めている。よい乳房との関係が不安定なので、続いて子どもを巻き込んだ行動化(お金を飲んで死ぬ)が勃発するが、この三巡目も「ロケット吸引」の夢で幕を閉じ、患者はワークスルーへの自信を得た。

羨望に基づく貪欲に動機づけられた盗みや侮蔑といった攻撃は、内的乳房との関係を損ない、循環気質タイプの障害として現れる。乳房の中のペニス性、ペニスの中の乳房性を許容できないと、乳房に依存しかけるとペニスを理想化し、それでペニスを奪い取るとペニスが迫害的になり、ペニスを奪われた乳房は弱体化し、という循環を繰り返すことになり、性的アイデンティティがゴチャゴチャなままである。それは、患者にとっては「家族に属していない」という深い不安の元となっていた(同一化対象が部分対象であり、なおかつ入れ替わり続けるので、内的家族という基盤を持てないということか:ブログ著者注)

このように、軽躁構造においては内的乳房の中のペニス的構造を認めず、盗み取り、内的乳房を侮蔑する。一方、強迫構造においては、内的乳房との関係にはなんらかの改善があるが、両親の性交によって引き起こされる羨望を怖れて、彼らの関係を支配しようとするので、両親間の創造的活動を許容できず、再び軽躁構造へ退行する。こうして、循環気質においては軽躁構造と強迫構造が入れ替わり現れる。根本的な問題は口唇的羨望の強さであり、内的対象の組み合わせは正常な自我発達の一段階とは違って、傷つき侮蔑された乳房と理想化され崇められたペニスという組み合わせ。強迫構造より先に進展するには、口唇的羨望を自我に統合し、自己の依存的ポジションを受け入れ、両親間の創造的活動‐性交を容認することが必要。

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要約は以上となります。

メルツァーらしく器官言語が繰り返し用いられるので、慣れていないと食傷気味かもしれません。主旨としては、対象の創造性を容認できないと、延々と対象を分裂せざるを得なくなり、対象関係や自己の安定した基盤が脅かされるということです。循環気質との関連で言えば、容認できない結果として、乳房への侮蔑、乳房から奪ったペニスの理想化という力動があるということですね。

この対象の創造性が(良性の)結合両親像の中身であり、そこで言う結合とは、両親の性交というよりも、内部で起きている交わりです。後にブリトンが洗練させるところの、分析家が考えること(分析家と分析理論の交わりによって解釈が生み出されること)を許容できないという臨床的観察にもつながっていくものでしょう。

交わりは内部ですでに起きているというところがポイントだと思います。「結合」とか「両親」とか言われると、父親と母親の性交というイメージを喚起されますが、重要なのは内的対象同士の交流です。心の中で考えが進展するかどうか、同様に、相手の心の中で考えが進展していることを感じ取れるかどうか、ということです(それが感じ取れれば、進展していないこと、つまり結合が生じていないこともわかります)。

内部の交わりに対する態度を見逃すと、全然違う理解に至ることもあるでしょう。論文の中でも、母親への侮蔑は父親転移のような様相で現れてきたことが書いてあります。女の子が離乳後に父親に接近するという表面上の流れだけを見ると、通常のエディプス的展開のようですが、その動機は内的乳房を侮蔑し、弱体化させることにあったという理解が分析の展開のきっかけになっています。このとき、父親は全体対象として愛されているのではなく、内的乳房から奪った創造性の片割れを付与されているのです。乳房の価値を認めたうえで分離性を受け入れ、対象を再発見・再創造していくという離乳過程とは似て非なるものです。

また、結合がどこでどのように起きているか、あるいは起きていないか、という視点で見ると、家族関係を理解する上でも、重層的な見方ができるように思います。たとえば、「やさしい母親と厳しい父親」という組み合わせは、慣習的なジェンダー観からすれば当たり前に見えるかもしれません。実際、「やさしい母親」が言うべきときには子どもを律する厳しさを持ち合わせており、「厳しい父親」が子どもが耐えうる厳しさを見究めるだけのやさしさを持ち合わせていれば、家庭はうまくいくでしょう。これは親が内的な結合を許容していることと言えるかもしれません。母親も父親も、自分の性格的に発揮しやすい関わり方(母親はやさしさ、父親は厳しさ)をメインとしながらも、それを活かすもう一つの要素(母親にとっては厳しさ、父親にとってはやさしさ)と自分の中で葛藤しつつ交わって、臨機に子どもに応えているのです。

これが、親が内的な結合を許容できないと、文字通り母親はやさしいことしかできず、父親はどこまでも厳しいだけなので、家庭は分裂した様相を呈するかもしれません。子どもは母親に寄りかかって強さと自信を失うか、父親に適応して人の気持ちを考えなくなり母親を弱いと侮蔑するようになるか、迫られるかもしれません。少なくとも、やさしさと厳しさのコラボレーションの妙味(つまり成長ということ)を味わうことは難しくなるでしょう。

今のコラボレーションという話に示唆されることですが、親の内的な結合のほかに、親同士の結合ということも考えられそうです。たとえ内的な結合(葛藤しながら臨機に応じる)が難しくても、異なる特徴を持った親同士がコラボレーションしていることに気づけたら、これもまたうまくいきそうです。やさしいばかりで子どもを律することがなかなかできない母親も、厳しいばかりで寛容さを持てない父親も、自分ができないところをパートナーが補ってくれているとわかっていたら、協力できます。つまり親同士の結合というのは互いの貢献に対するリスペクトということです。これは翻って、パートナーの中の親機能を認め、パートナーあっての子育てだと受け入れることでもあり、メルツァーの話とつながってきます。

なお、この話は「やさしい父親と厳しい母親」という組み合わせでも同じです。そこでうまくいかないことがあるとしたら、それは慣習的なジェンダー観に照らして「父親らしくない」「母親らしくない」からではなくて、内的な結合や親同士の結合がうまくいっていないからでしょう。

現実には、本当にリスペクトできるパートナーなのか、協力できる相手なのか、という点でいろいろバリエーションがあるのであって、どんな状況でも「相手のいいところも探しましょう」などと馬鹿の一つ覚えのように言うのは能天気というものでしょう。ここでお示ししたのは、臨床現象を重層的に理解するための一つの視点です。

協力できるかどうかという点で言えば、侮蔑が持つ力というのも、メルツァーがこの論文で示している重要な点です。論文で詳述された分析過程において、患者はあからさまに対象を価値下げしているわけではありません。乳房に依存していることをある部分では認めています。しかし、結合による創造力を侮蔑しています。乳房は器としての包容力しか認められず、ペニスこそ根源的な力を持ったものとして神格化されます。これは表面的には父親への愛情として現れますが、父親も実体を捉えられているわけではなく、ペニスの投影先として祭り上げられているだけです。乳房は運び屋にすぎず、ペニスはありえないほど崇められるということになります。結局、自己は直接関わりのある誰に対しても、ありがたく受け取って喜ぶことができません。

この侮蔑は自分の中で創造が起きるときにも働きます。つまり、自分の考え、着想に対して、「誰かの受け売りにすぎない」とか、「もっとすごいことを考えてる人はいる」といったケチをつけて、その考えを表現したり、行動を起こしたりすることを躊躇います。この侮蔑は裏を返すと、完全無欠のオリジナルな考えというものがあると想定していることになります。ここで言うオリジナルは、誰からの影響も受けていないという意味です。ご紹介した論文に従えば、それが神格化されたペニスということになるでしょう。あるいは器官言語を使わずに、理想化された万能的部分対象と言ってみることもできるでしょうか。

どんな考えも何らかの点で先達の考えに負っているところがあるということを考えれば、誰かの考えに似ていることは直ちに無価値であることを意味しません。また、多くの仲間たちが同じような問題に取り組んでいることを考えれば、「もっとすごい考え」がどこかにあるのは当たり前の話ですし、「すごい」かどうかの評価はいろいろな考えが発表された後になってだんだんと定まってくるものでしょう。つまり、「もっとすごい考え」があることは、自分の考えを表現しない理由にはならないというのが実際のところです。

それでもなお、誰からの影響も受けていないサイコーに優れた考えだけを言いたいということになると、侮蔑が羨望に対する防衛になっているということがよくわかってくるでしょう。つまり、誰かの考えに影響を受けたことを認めたくないとか、「すごく」見える誰かの考えと自分の考えを対話させて(結合させて)何が生み出されるか見るのは耐え難い(結合なんて起こらない、優劣を付けられるだけだ)とかいった感情が背景では動いているのかもしれません。

翻って言えば、誰かから受けた影響を喜んで受け取ること、そして自分が考えることややることの未来を楽しみにできること、というのはクライン派精神分析におけるけっこう大事な里程標ということになるでしょう(もし、先達に感謝はするけど、自分の考えにはあまりにも謙虚なのだとしたら、その「感謝」は祭り上げに近く、「謙虚」と言いつつ自分を侮蔑しているのかもしれません)。

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