羨望に対する防衛という観点から見た、平等と格差の併存

 今回取り上げる文献はこちら

Meltzer, D. (1965/1994) The dual unconscious basis of materialism. in Sincerity and Other Works. Karnac Books, 133-141.

「物質主義を支える二つの無意識的基礎」というようなタイトルでしょうか。13世紀のイングランド社会を素材として、羨望に対する防衛という観点から、平等主義の追求がより大きな格差の恒常化を支える様子が描写されます。そこから現代社会への示唆を得ることができるでしょうか。

まずは要約してみましょう。(小さなYomogiフォントはブログ著者注)

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13世紀のイングランドの土地所有と機械の導入に向けられた態度を検討することで、社会的な態度形成における無意識的羨望の役割を描写する。羨望は遍く存在しているが、妄想的嫉妬と投影同一化によって防衛される。妄想的嫉妬は、よい対象への羨望を、その対象の領分におけるライバル同士の公正さを巡る聖人ぶった争い(みんなが平等な分け前を得ているか)に置き換える。投影同一化は羨望の対象に侵入して乗っ取り、その特質を横領しようとする(最初から自分のものということになるので、対象の価値を認めて称賛する必要がない)。これらが外在化されると、測定可能な所有物への執心(妄想的嫉妬)と所有物への同一化による自尊心の拡大(投影同一化)という形を取る。

この二つのメカニズムは相互に強化し合う。投影同一化は誰かがよいもの(母親の身体内部)を横領しているという空想を刺激し、これが、不正許すまじ、という妄想的嫉妬を強化し、投影同一化の動機を強化する。母親の体内という楽園をめぐって、内の子ども 対 外の子ども、という絶え間ない争いが勃発する。その戦場は母親の身体である。

これらのメカニズムの社会構造におけるはたらきを例示するため、13世紀のイングランドの土地保有制度について述べる。当時は封建制度に基づく共同体農業が盛んであり、社会階層は固定化されていて、階級間で闘争するなどという機運はなかった。農奴にせよ、自由民にせよ、貴族社会にせよ、保有する土地は父親の決定により、分割されずに一人の子に相続されるのが一般的であった。これにより、各階級内で「持つ者」と「持たざる者」が生じ、階級同士は互いに隔離されていた(階級闘争は起きない)

一方、農奴や自由民に与えられる土地区画は土壌の良し悪しにかかわらず、各階級内で機械的に同一面積であり、そこは絶対平等主義がしかれていた(妄想的嫉妬)。隣人への羨望が防衛され、階級内の安定が絶対視され、上の階級を羨むということもなかった。与えられた区画により収穫量が違うので、農作業自体はみんなで行い、みんなで収穫物を分け合った。自然と共同体が組織され、隣人間のトラブルや領主との交渉などにあたり、わりと民主的な裁定が行われていたが、それでもこの機関が階級闘争に用いられることはなかった。(隣人への羨望が防衛されていたので、)階級内の「持つ者」と「持たざる者」の葛藤は各家庭内へとさらに囲い込まれていた。

このような安定志向・平等主義の封建社会において、機械の登場は脅威であった。それは移動可能であり、個人の創意工夫で生産量や生産効率を上げられることを意味したからである(羨望の余地が生まれる)。封建社会においては、土地のみが測定可能な生産の源であり(農産物や家畜)、それは平等に分割され、個人の創意工夫で効率を上げることはできないと信じられていた(天の恵み次第)。実際、技術的には十分導入可能であった機械化も、共同体の意思決定により何度も阻まれた。土地(無意識的には母親=よい対象の身体)は平等主義により限りなく細分化され、潜在的な生産性を引き出されることなくズタズタにされた(妄想的嫉妬により母親の身体が戦場となり、よい対象が破壊される)。一方、家庭内では土地は分割されずに相続されるので、相続人による総取りとなり、すべてをほしいままにする内の子ども 対 裸ひとつで放逐される外の子ども という無意識的空想がそのまま演じられていた(投影同一化の背景にある空想の現実化)

親が持つ羨望が本論で述べたような方法で容易に防衛できてしまうところでは、母親の身体との人間的な関係は貪欲な者たちの戦場へと置き換えられてしまい、結果として、子どもたちは破局の恐怖に憑りつかれて延々と争うので、母親の死は避けられない。現代における終末論的な恐怖を表す核兵器をめぐっては、その恐怖を中和しようと完全なる平等を気が狂ったように追い求めていると言えるのかもしれない。

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要約は以上です。

大意としては、平等を求める動機が抜け駆けされるのではないかという迫害不安に結びついている場合、隣人同士で牽制し合うことになり、かえってより大きな不平等が温存されてしまうといったこと、そして、隣人同士の牽制は、出る杭は打たれる空気を醸成し、創造性が抑制されるといったことのようです。

最後のところでは、敵国の軍備に対する妄想的嫉妬から、核開発競争が激化していく冷戦下の不安状況を示唆しているようです。機械化に対して比較的肯定的なのは、イノベーションと経済成長に対する楽観を示しているようで、現在であればまた別の考察が出てくるかもしれません。

このように、メルツァーの考察対象はもう昔の話となっていますが、話の趣旨は今の私たちの社会にも参考になるでしょうか。

たとえば、みんなが残業していると、定時で帰りづらいという雰囲気。

みんな残ってるのにアイツだけ・・、という妄想的嫉妬を向けられることを怖れて、本当は定時で上がれる人もけっこういるのに、みんなで牽制しあって残っているのかもしれません。

そのときの投影同一化の空想は、「定時で帰る奴はのんびりラクしてやがる」(苦役を免れている)とか、「アイツは上司のお気に入りだから定時で上がっても何も言われないんだ」(母親の体内を独占する内の子ども)とかでしょうか。そんな妬みを打ち消すように、「苦労しない奴は大成しないんだ」とか考えて自分を慰めたりするでしょうか。実際には、定時で帰った人にも家事や育児があって、そんなに楽チンではないかもしれませんが。

そして、そんな妄想的嫉妬を怖れて、本当は定時で帰れる人たちもお付き合いで残業すると、人件費ばかりかさみ、本当はさしてやるべきこともないので全体の能率は下がる一方だったり(会社という母親の身体が蝕まれていく)。

その一方、そもそも労働時間などに拘束されない人たちの有閑生活と、自分たちが引き受けている苦役との違いは、本当に合理的に正当化されるものだろうか、といった問題は看過されていくでしょうか。

あるいは、ある専門職集団が正当な権利と報酬を求めて立ち上がったとしましょう。

すると、同じような領域に携わっている別の専門職集団は、「この業界の待遇はだいたいみんなそんなもんじゃないか。贅沢言うな」と愚痴るやら、揶揄するやら、しだすかもしれません(抜け駆けを許さない雰囲気)。

それで、最初に立ち上がった専門職集団は、同じような待遇で働いている別の専門職集団に気を使って、「自分たちの権利の主張ではなく、あくまでもユーザーに対するサービスの質を向上させるためなのです!」といった論陣を張らざるを得なくなるかもしれません(階級闘争には使われない民主的組合のように)。

このような、同一階級内で足並みを揃えることに右往左往しているとき、同じような業界に携わっているにも関わらず、他の専門職の何倍もの報酬を得ている専門職集団は、当然のことながら沈黙を守るでしょう。

このような状態が長く続けば、その業界を支える様々な専門職集団において、有能な専門家が育つ土壌が次第に痩せていってしまうかもしれません。

誰もがそれぞれの立場で正しいことをしているにもかかわらず、全体としてなぜか停滞していたり、よろしくない方向にいってしまうようにみえるとき、「正しい」ことの背景で怖れられているのはなんなのか、目を向けてみるのもわるくないかもしれません。

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