羨望という概念は傲慢なのか

 今回はSincerity and other worksの第2章、

Note on a transient inhibition of chewing(1959)Sincerity and other works. Karnac Books. London. 22-34.

を取り上げたいと思います。この論文は、編者のノートに拠れば、クラインの「羨望と感謝」の翌年に発表された臨床論文で、羨望理論の適用例とのことです。臨床素材が中心の論文ですので、要約すると些か味気なくなってしまうのですが、ひとまず要約してみましょう。

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臨床素材は若い境界例患者の分析の三年目から採った一週間です。それまでの分析で臨床的には著しい改善が見られていることが前提となっています。

患者は月曜日のセッションで分析によって自分がよくなっていることを自覚した後、前の治療者の家の近くまで行きます。その夜に、前の治療者の身体が歪んでいて、彼女はファーストレディであって、死んでしまったという記事を見た気がし、父親が正当防衛による殺人の方法を患者に教え、前の治療者の死にすすり泣くsnivelling患者を非難するという夢を見ます。

(「自分がよくなっている」つまり分析家の世話になっていることを自覚した途端に前の治療者のところに行きたくなる、前の治療者を上げて分析家を落とす、というところに羨望を読み取っているわけです。ちなみに、分析家を落とすために祭り上げた前の治療者すら、身体が歪んでいる、つまりダメにしてしまっているというわけで、喜んで受け取ることができない絶望的スパイラルが羨望の苦しみであることがわかります。)

火曜日のセッションでは、前の治療者が患者のちょっとした言い間違いを鼻で笑ったsniggeringことがあったという連想から、陽性の母親と羨望的部分がどちらも前の治療者に投影されており、それゆえ彼女はおぞましい対象となって患者の中に取り入れられましたが、その罪悪感は父親に投影されて、父親は患者が死を悼むよりも罪悪感から自分を正当防衛するよう唆す対象となっていることなどが分析されます。患者は分析家が自分の苦しみをわかっていないとすすり泣きましたが、これは正当防衛による自己憐憫でした。

水曜日のセッションは、分析と分析家を貶める総攻撃が展開されましたが、その中で患者は前の晩に母親のビジョンを見たことを漏らしました。その母親は迫害的ではありませんでしたが、もう弱りきっていて、患者に慰めを与えることはできなさそうでした。このセッションでは、前の治療同様にこの分析も死につつあると感じられていることなどが分析されます。

(母親が迫害的ではなく、弱りきっているというところに抑鬱不安の現れを見ているわけです。なぜなら、患者は以前には、母親が燃えさかる目で彼に恨みを抱いていて、ナイフで突き刺してくるという幻覚や、神経質な病気の女性の夢などを見ていたからです。そのような非常に迫害的な母親や、病んでいて治療が必要な母親に比べれば、弱りきっている母親というのは、患者の取り入れ不全によって衰弱してしまった彼の内的母親という心的現実に、患者が直面していることを示しているからです。)

木曜日のセッションは詳しく提示されています。患者は火曜日のセッション以来、固形食を食べていないが、それはダイエットのためで、消化器に休息を与えているんだと話します。メルツァーは、患者は分析の食物をもらうときに音声と意味が切り離されるまで噛み砕いてしまうのだが、それはなぜかと言えば、誰が食物を与えてくれるのかわかってしまうと羨望がわいてしまうからで、しかしそうすると母親と切り離された哺乳瓶のようになって、栄養は摂取できるが人間的なつながりは枯渇してしまう、ということを解釈します。

患者は実は火曜日の夜に夢を見ていたことを話します。それは、ある愉快な男がもう一人の死んでいる男の顎を外し、その顎を患者が美味しく食べる、という夢でした。メルツァーは、分析家あるいは母親の助けが欲しくなることに耐えられないので、分析家の顎を奪って自分のものにしてしまったのだが、そのせいで今度は顎のない分析家、つまり使い物にならない対象を取り入れることになり、それでは内的母親の修復が進まないので、顎のない対象に同一化せざるを得なくなり、固形食が食べられなくなったのだと解釈します。

患者は解釈を受け入れますが、母親のビジョンのことがまだ理解できないと話します。メルツァーは、外側にどんなによい対象がいても、自分の羨望によって内的母親を傷つけてしまう限り希望は持てないということを患者が認識し始めていること、しかし、そのような認識に至ったのは、これまでの分析の果実を患者が取り入れていて、弱りきった母親像を見ることができるところまで内的対象を修復してきたからこそなのだが、患者はそれを忘れてしまっている、ということを解釈します。

その後の患者の夢は、よい食物を守ろうとする彼の能力が増してきていることを示すものでした。

ここまでで臨床素材の提示は終わり、メルツァーの考察が始まります。

メルツァーは主として、傷ついた内的対象を自覚すると、償いへの衝迫が生じ、早く対象ならびに自己を治したいと思うあまりに貪欲な取り入れが生じ、再び対象を傷つけてしまう、という危険性を論じます。その悪循環に耐えることができないと、羨望によってさらなる破壊と解体に退行するというわけです。抑鬱ポジションの入口における難所です。

(子どもと関わる機会がある人は、パズルやブロック遊びなど、子どもができるようになりたいことがあるときに、近くの大人に教えてもらいたがるのだけど、教えてもらっている最中に自分でやりだしてしまって結局ちゃんと教わることができなかったり(貪欲な取り入れによって対象を機能不全にする)、何度もそれを繰り返しているうちに、もう全部めちゃめちゃにしてうっちゃってしまったり(羨望による破壊)、といった姿に、メルツァーが書いていることの一つの現れを見ることができるでしょう)

臨床素材で言えば、火曜日のセッションにおける「ファーストレディの夢」の分析で、羨望による内的対象の破壊を自覚した患者が、火曜日の夜に衰弱した母親のビジョン(抑鬱不安の自覚)を見ますが、そこで水曜日のセッションまで傷ついた母親の修復を待てない患者は「おいしい顎の夢」で分析家の言葉と声の源泉(顎)を貪欲に奪い取ってしまい、頼りの内的分析家対象が使い物にならなくなってしまうのです(固形物を食べられない)。それは彼が反復している困難のあまりにもつらい洞察であったので、患者は再び分析家(言葉を持っている外的分析家)の羨望による貶め(水曜日の総攻撃)へと転げ落ちてしまったというわけです。

(羨望と貪欲の違いは難しいですね。どちらも結局は対象を破壊してしまうので。貪欲は「それが欲しい!」が耐えがたいほど意識されています。強奪するのは問題ですが、強奪するものの価値は認めているわけです(顎はおいしい)。それに対して羨望は「そんなのいらない!何が楽しいの?あっかんべー!」ということです。どちらも後悔がつきものでしょうが、羨望の方が後味がわるいかもしれません。子どもが友達のオモチャを見たときに、「かしてよ!」と言って無理やり引っ張った拍子に壊してしまうのと(貪欲)、「は?つまんねーもん持ってくんなよ」と軽蔑して叩き落とし、踏みつけて壊す(羨望)のとの違いといった感じでしょうか。後者の方が後味わるいですよね。謝って許されるもんじゃない感じがします。後味がわるくて困るのは、耐えがたいときにさらにオモチャを踏みつけてしまうことです。後には引けなくなるのです。こうなると、自分自身に「救いようのないならず者」という烙印を押すことになり、世間に唾を吐きながら背中を丸めて生きるしかないと感じるようになってしまいます)

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要約は以上になります。

 「羨望」はクライン派の代名詞と言ってもいい、クライン派ならではの概念です。その分、批判も多い概念です。その批判の一つに、羨望という概念は治療者の傲慢ではないか、というのがあるように思われます。

羨望とは、対象が持っている「よきもの」への攻撃とされています。対象が与える欲求不満に対する怒り、攻撃、というのはわかりやすいですね。それに対して、羨望というのは、対象が満足を与えてくるがゆえに、その満足を与える力や能力に対して、妬みからの攻撃を向けるということです。

さきほど挙げた例で言えば、「つまんねーもん持ってくんなよ」と言っている子どもは、本当は相手のオモチャが羨ましいわけです。欲しいわけです。相手がその子自身の羨望と折り合いのついた友達である限り、頼めば貸してくれるでしょう。そうすれば楽しく遊べるかもしれません。しかし、自分は持っていないその楽しいオモチャを、相手の友達は持っている、という事実が承服し難い!自分は貸してもらったときしか遊べないのに、相手は家に帰って好きなだけ遊べるだと?そんなことは許しがたい!となれば、最初からそんなオモチャはつまらんものだということにして、ぶち壊しにしてしまえ!ということになるわけです。本当につまらんものだと思っているなら、「ふーん、そういうの好きなんだ」と言っておればいいことですが、本当は欲しくてたまらないので、壊すしかないのです。苦しいです。オモチャを踏みつけながら、泣いて、怒って、自分を呪っているでしょう(ところで、この子は自分の家に帰って「自分もあれがほしい〜」と言ってもなかなか買ってもらえないのでしょうかねぇ・・)

さて、クライン派ですから、転移解釈を重視するわけですが、この羨望を転移解釈するということは、治療者が与えているものはよきものだ、と治療者自身が言っている、という含みを持ちます。ここが傲慢だと言われる所以です。「あなたは私からもらったものがいいものだと思うからこそ、ぶち壊してしまうんですよね、妬ましくて」ということになるわけですから(実際にはそんなこと言わないと思いますが・・)、たしかに、「あんたは自分が間違ってる可能性を考えないのかよ!」とツッコミたくなります。下手をすると、治療者が「私がこんなにいいものあげるっていうのに、あなたは受け取れないっていうの?」と言っていることになりかねないと思われるわけで、こうなると高慢ちきなセレブリティか、幼稚で押し付けがましい親みたいです。

しかし、実際にクライン派の分析を受けた経験から申し上げますと、羨望を分析されているときというのは、治療者がいいことをしているかどうかに焦点が当たっているという感じはあまりしません。どちらかというと、自分自身の「喜んで受け取ることができない苦悶」に焦点が当たっているように感じられます。「屈託なく喜ぶ」ということができない自分を持て余してしまっているときに、気休めではなく、その問題を俎上に載せて話し合うことを可能にしてくれる概念が羨望なのです。

妬ましくて「あっかんべー!」をしてしまう。そんなことはみっともないので最初から訳知り顔で自分には必要ないと嘯く。あるいは暗に相手や対象を腐す。受け取りもしなければ、与えもせず、「貸し借りはなしよ」と言って平然としている。好きだからこそ意地悪する・・・。

これらは皆、私たち人間にとても身近な感情の動きです。とても身近なので、みんなそのくらいのことはやっているという言い訳を立てやすいのも羨望の特徴です。しかしとても厄介で持て余してしまうものでもある。かといって、自分がやっていることが暴かれるととてもバツが悪いし、お行儀が悪いことをしてしまった感じがするので、とてもじゃないけど対話の俎上に乗せられない。人間というのは厄介なものですね。

メルツァーの臨床素材においても、メルツァーがいいことをしているかどうかはあまり話題の前景には立っていません。むしろ水曜日のセッションでは患者からの執拗なこきおろしを受けてなお、患者の苦しみに焦点を当てようとしています。おそらく前の治療者との治療もいい形で終わらなかったのでしょう。そのことへの後悔もありそうです。自分がよくなっていくこと、治っていくことを素直に喜べない後悔と後味の悪さに患者は苦しんでいるようです。心深くで自分を呪っている。そのことを懺悔したい気持ちもある。「おいしい顎の夢」というのはまるで懺悔のようです。そこで、神の許しに期待するのではなく、人との対話の機会を提供すること。それが精神分析の信というものでしょう。その対話がいわゆる転移解釈の形式に則って行われているかどうかというのは、それほど本質的な問題ではないかもしれません。

おそらく現代であれば、治療者が過ちを認めるという対応が考えられるでしょう。羨望概念の悪用例の一つは、「よいものへの攻撃」という定義を拡大解釈して、「治療者はよいことしかしない」という暗黙の前提を持ち込み、治療者の過ちを正当化する方便として、患者やクライエントの羨望を解釈することです。

治療者にも羨望はあるのです。たとえば、さきほど挙げた「こんなにいいものあげてるのに、受け取れないというのか」という反応が実際に治療者に起きるとしたら、それは治療者の羨望が刺激されているときでしょう。羨望に対する防衛(つまりクライエントの指摘が正しいと認めたくない)として、いいものは全部自分の側にある(それならクライエントの本質を見る力に羨望しなくていい)と思いたくなっているのかもしれません。

羨望というのは純粋なる破壊性、一次的な攻撃性などと言われたりするので、とても恐ろしいものと思われがちかもしれません。そう思うと、目を背けたくなります。しかし、個人分析において自分の羨望に触れてみると、それはとても身近で厄介なものとして見えるようになってきます。自分の中で、自分に対して、ケチをつけずに「いいじゃん」と言えるかどうか、自分を許せるかどうかに関わることなのだと思います。

おそらく大切なのは、「屈託なく喜ぶ」ことの足枷となっている、自分を呪うような後悔、「もう自分は人として許されないのではないか」という、墓場まで持っていくしかないと思われるような苦悶に、対話を通して触れていくことなのではないかと思います。

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