不安を症状と捉えない発想

 ひとまず、Sincerity and other works(1994)に所収の著作を一つずつ取り上げてみましょう。最初に取り上げるのはこちら。

Towards a structural concept of anxiety (1955/1994). Sincerity and other works. Karnac Books. London. 3-21.

まずは要約してみましょう。

要約

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メルツァーは一つの思考実験として、不安装置という概念を導入し、これを自我から分離します。不安装置は未来への予測を自我に伝達し、自我が予測と未来における実際の知覚を比較検討し、行動を調節するのを助ける機能を持つとされます。予測には不安が伴います。つまり、不安は経験から学ぶ上で本質的な役割を担っています。

(不安は「こうなってしまうのではないか」という未来形で心に浮かぶことが多いので、予測を含むという発想ですね。それが実際どうだったか、妥当な予測だったか、思い込みだったか、後から考えることで経験から学ぶことができるということを言っています)

次にメルツァーは不安の種類を定義します。乳児が身体像と外的対象を区別できるようになると、外的対象が緊張を解いてくれるかどうかという不安が発生します。これが対象にまつわる不安、対象不安です。メルツァーによれば、外的対象が緊張を解いてくれないという迫害不安は緊張(苦しみ)が永続するという予測(空想)をもたらし、それは死というよりも地獄に近いと言います。一方、乳児の自我の脆弱性を背景に、高まった緊張や攻撃性をコントロールできないという不安が生じ、これを本能不安と呼びます。これは、外的対象を必要とする自我の無力さを含み、原初的な形態は抑鬱不安だとされます。外的対象は期待どおりに動いてくれれば、よい対象、動いてくれなければ、わるい対象となります。よい対象とわるい対象が融合しないのは分裂という防衛機制のためではなく、自我の未成熟のためだとされます。

(一つのモデルとして赤ちゃんと親の関係が用いられているわけです。親がいろいろやってくれているんだと気づくと、親がいなくなったり、やってくれなくなったりすることが怖くなるということ。で、やってくれなくなると、赤ちゃんは自分ではなんにもできないので、自分がどうかなるんじゃないかというのが非常に怖いと。)

ここでメルツァーは不安装置の話に戻ります。不安装置は自我が経験から学ぶことができるように未来への予測を伝達するという機能を機械的に果たし続けます。適応に失敗すると、未来への予測が苦しいものになるので、自我は当面それに耐えて、現実への関わりを調整し続けなければなりません。ここで自我が耐えられないと、苦しみの原因は不安装置がもたらした予測(空想)であるかのように自我は反応します。しかし、実際には不安装置は本来の機能を遂行し続けているだけなので、原因ではありません。原因は自我の脆弱性なのです。ここで自我が不安に対して採る二つの態度が分類されます。一つは不安装置を遮断することで、これは健康な状態でも起こりうるその場しのぎの反応です。一方、不安を躱すという選択は、その領域に関して二度と不安を経験しないという方針で、これは病因的となります。

(ここらへんの話がこの論文のメインテーマですね。不安を感じるのが問題じゃないんだよ、不安に耐えられなくて目をつむったり、なかったことにしちゃったりするのが問題なんだよ、ということです。)

メルツァーはここであらためて自我と不安装置の関係を図式化します。

時点A:自我は知覚と記憶を関連付けて時点Bの予測と適応プランを作り、不安装置はその予測を引き取る。

保留時間:自我は適応プランを実行し、不安装置は予測を保留したまま知覚の推移をモニターする

時点B:自我は不安装置が保留していた予測と時点Bの知覚を照合し、新たな適応プランを練る。

(このように図式化すると「不安装置」の機能は予測の伝達なので、ネーミングは「予測装置」でいいじゃないかと思いますよね。「予測装置」からの連絡を怖がっちゃうから不安が発生するのだと。ただ、メルツァーとしては不安という概念が混乱しているので、不安の機能は一つに決めてしまって、自我(臨床上、直に関われる相手)の問題に落とし込もうとしているわけですね。だから、不安の発生を自我の側に置くと、また混乱が生じるじゃないかという苦心があるわけです。)

この図式に基づいて、パーソナリティにおける病理(病的操作)と症状(症候機制)の下位分類を論じようというわけです。概ね、次のような対応関係が想定されています。

対象不安−不安の遮断−一時的な症状形成

本能不安−不安を躱す−パーソナリティの変容

メルツァーは後者から論じます。本能不安は強烈なので、不安を躱す方針を自我は採用します。上記の図式は時間的連続性の認識を含んでいますが、自我はこの図式のどこかを歪曲することで、時間的連続性の認識を破壊し、予測して妥当性を検証するという経験から学ぶ循環から脱却してしまいます。つまり、成熟過程の放棄なのです。その方法として、

(1)精神病的操作:現在の生活空間の知覚の歪曲

(2)精神神経症的操作:過去の出来事との連想過程の歪曲

(3)精神病質的操作:未来への空想過程の歪曲

を分類します。メルツァーは各操作について疑問点を述べます。(1)についてはそれほど多くは述べられていませんが、(2)に関しては、葛藤器官の除外によって抑圧が作動するという考え、(3)に関しては、対象関係を未来なきものとするという考えが述べられます。

(上記図式が時間的連続性の認識を含むというのは、時点Aから見れば、「現在から未来を予測して動く」ということで、時点Bから見れば、「過去から現在までの流れを振り返って考える」ということです。)

さて、メルツァーは前者の症状(症候機制)について述べる前に、精神医学においても疾患と症状の区別は有用であることを示します。疾患とは病的変容であり、症状は疾患あるいは疾患の経済論的位置づけの変動に伴って生じる平衡状態を取り戻すための現れです。つまり、平衡状態であれば、疾患があっても症状は出ません。症状は変動に伴うので、疾患が進行するときも、回復するときも、同じ症状が出ることがあります。メルツァーの言葉で言えば、疾患とは不安を躱す自我の方針であり、症状は不安を遮断する一時しのぎです。次いでメルツァーは症候機制について、上記図式に基づき、時点Aの否認、保留時間の関連事象の解離、時点Bにおける不安装置による発見の否定、という三つを分類します。ここでメルツァーは解離活動と儀式を結びつけ、強迫症状等の発症は、予測−妥当性検証循環のどこかに魔術的手段を入れ込もうとしたタイミングであることが多いと述べます。また、不安装置に敵対する活動のみを防衛機制と呼ぶべきであると述べます。

(ここで言う「解離」はいわゆる解離症状のことではなく、本当は関連し合っている事象を結びつけないようにする、というような意味だと思われます。強迫症状と結びつくのは、たとえば「A→C」という因果関係に「B」という儀式を割り込ませて、AとCの関係をないことにしようとするようなことでしょうか。「両親の寝室のドアが開いてる!(A)」→「このままでは夜中にお化けがやってくる!(C)」→「枕の下にぞうさんを潜り込ませて上から5回叩かないと!(B)」みたいな。治療上は、Aの背景にある侵入空想と早期超自我不安がCの幻覚的恐怖を招いていることを分析して、Bを不要のものとするという流れでしょうか。

つまり、自我による心的活動をすべて防衛機制と呼んでしまうと何が問題かわからなくなるということです。ここに不安装置という概念を導入した意義があり、メルツァーによれば、不安装置に敵対する活動(成熟過程の妨害)のみが防衛機制であり、その他は性格的な戦術の類だということです。また、メルツァーは、未来への空想として不安を捉える考えはサリヴァンに負っているとしながらも、サリヴァンが不安そのものを破壊的だと描写したのに対して、メルツァーはそれを破壊的だと体験する自我の脆弱性を抽出したので、不安に対する自我の態度の問題として扱いやすくなったと、その意義を強調しています。

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以上で要約を終わります。

メルツァー自身も述べていることですが、不安装置の位置付けや機能、不安の起源や種類については一貫性に欠けるところもあり、理解を難しくしているところでしょう。

重要なのは、不安装置なる概念を用いてメルツァーが何をしようとしているのか、です。不安を自我から分離し、不安そのものは自我の成熟のために特定の機能を果たし続けているだけだ、問題は自我の態度なのだ、という発想がそこにはあります。

不安そのものは症状でもなければ、病理的でもなく、むしろ不安と現実を照合することで、パーソナリティは外的現実と心的現実を選り分け、成熟していくのです。自我が不安に耐えられなくなったときに症状化したり、さらに悪ければ症状さえ出ない反成熟状態を安定的に築き上げてしまうということでしょう。

ここに見えるのは、成熟へと向かう人間の本姓への信頼というメルツァーの臨床哲学です。そしてそれと同時に、成熟を放棄する、成熟に敵対する人間の性に対するごまかしのない眼差しです。

たとえば、精神病質的操作について、対象関係を未来なきものとする、と述べることにそれが現れています。これをより情動的リアリティに翻訳して言えば、相手との関係に未来があると見做さない、ということです。未来がないので、相手に何をしてもかまわないということになります。都合が悪くなれば相手を替えればいいだけだからです。未来をなくす、というのは、その相手と今後も付き合っていく可能性を考慮しないということです。メルツァー自身述べていることですが、搾取しても買収してもお構いなしなのです。旅の恥はかきすて、という諺がありますが、それを人間関係においてやってしまうということです。

つまり自己愛的な対象関係ということですが、そこで歪曲され亡き者にされているのが、予測−妥当性検証循環の未来予測。より情動的に言えば、「こうなるはずだったけど、実際はこうなっているな。それは自分がこうしたからなんだよな。このままではこの人との未来はこうなってしまうぞ。それは嫌だ。今度はこうしなきゃ」という内省です。こう書くと、不安に耐えかねて成熟が放棄されるというのがよくわかります。「それは嫌だ」のところで耐えられないと、「じゃあもっと自分のことをわかってくれる人(都合のいい人)に交替だ!」となるわけです。

こうした人間の弱さに対する叱咤激励と、成熟への希望が見える。1955年の論文ですから、もしかすると書かれたのはクラインとの分析の前かもしれません。それゆえ、いまだぎこちない理論的こねくり回しが目立ちます。しかし、それでも目を開けることへの叱咤を感じる著作と言えるように思われます。

なお、細かい部分でも興味深い発想が見て取れます。まず、不安の起源について述べる件で、原初的対象についての説明に次のような図式が見られます。

1.授乳する乳房=よい対象

2.授乳しない乳房=わるい対象

3.出ていく糞塊=よい対象

4.出ていかない糞塊=わるい対象

1.と2.は上部消化管の緊張の開放に関わる対象関係、つまりリビドー的な対象関係です。3.と4.は下部消化管の緊張の開放に関わる対象関係、つまり攻撃性をめぐる対象関係です。

私たちはしばしば、リビドー的な対象関係をよい対象関係と、攻撃性をめぐる対象関係をわるい対象関係と結びつけがちかもしれません。しかし、実際にはこの図式にある通り、どちらにもよい対象とわるい対象が生じるのです。

1.と4.は比較的わかりやすいでしょう。身体的にも情緒的にも満腹、満足を与えてくれる相手は掛け値なしにいい人です。また、不愉快な相手がいつまでも自分のそばにいるというのはわかりやすく耐え難い状況です。

臨床上、見逃されがちなのは2.と3.かもしれません。1.と2.をまとめて授乳をめぐる葛藤と言っても間違いではありませんが、それでは少し解像度が粗いかもしれません。分析セッションや分析臨床においては、2.の「わるさ」を明確に認識することが大切です。

試みに、2.を「出し惜しみ」と考えてみると、セラピストがいろいろなことを思っているのに、それを解釈やコメントとしてクライエントに伝えずにいることは、もしかするとこの意味でのわるい対象になっているのかもしれません。セラピストの意識としては、機が熟すまで待っているとか、素材が不十分であるとか、言い訳はあるでしょうけれども。しかし、セラピストの思考機能、夢想機能の産出物をクライエントに分け与えないというのは、意地悪、ケチ、ということになるのかもしれないという発想は持っておきたいものです。とりわけ、日本人は待つことや差し控えることにかけては天才的ですから、出し惜しみをしていることに気づきにくいのです。謙虚さと出し惜しみは紙一重ということです。

また、2.を出し惜しみと考えてみると、それに対応する1.は「気前のよさ」と言えるかもしれません。山上千鶴子は解釈をverbal feedingと読み解きました。言葉による授乳です。分析セラピスト、分析臨床家の武器はやはり言葉です。言葉によって、私たちは心の養分をクライエントに提供するのです。ですから、言えるだけのことは気前よく言う、ということの「よさ」を、「言わぬが花」を自然にやってしまう日本人臨床家はよくよく肝に銘じておくことが案外、臨床家としての視野を広げてくれるかもしれません。クライン、メルツァー、ジョセフなど、ごまかしのない分析家たちの解釈の長いこと!長すぎる解釈やコメントの問題点は私が指摘するまでもなく日本では言い尽くされていることでしょう。ここでは今一度、言えるだけのことは言う気前のよさ、解釈のverbal feedingの側面を強調したいところです。

さて、たくさん食べればたくさん出ます。つまり3.が問題になります。出ていく糞塊は実際のところ、それを受け取る対象ということになります。直腸から排便できたとしても、お尻がベチャベチャなままなら体感的には気持ち悪いままですから、糞塊は出ていっていない!ということになるわけです。つまり出ていく糞塊とは、実質的にはトイレ乳房ということになります。

トイレ乳房というと、しばしばセラピストが延々攻撃されるという面が強調されますが、「トレインスポッティング」に出てくるようなメタクソに汚れたトイレというのはそう多くありません。どうしてもトイレをそのように汚してしまう重篤な患者やクライエントを相手にしているのなら別ですが、それほど重篤ではないのにトイレが汚れてしまうとしたら、トイレが小さすぎるとか、トイレ掃除が今ひとつ、という可能性もあるかもしれません。トイレはできることなら清潔であるべきなのです。

つまり、トイレ乳房というとき、ひたすら汚いものを投げ込まれるというイメージだけでは不十分で、それでもなお、お尻をキレイにし、トイレを清潔に保つということが求められるでしょう。あまり訳のわからないことを話しすぎるとセラピストを困らせてしまうのではないか、とクライエントが危惧するのはよくあることですが、使うのを遠慮しなければいけないようなトイレではトイレの意味がないのです。

出ていく糞塊がよい対象であるというのは、象徴的に言えば、トイレを清潔に保ち、クライエントの自己がしかるべきところで遠慮なく用を足せるようにしていくこと、ということになるでしょう。また、下部消化管という喩えを広げるなら、糞塊以前、つまり消化吸収を助ける胃対象、腸対象といったセラピスト機能を想定することもできそうです。

次に、メルツァーが対象不安についての件で、対象が緊張を開放してくれない状況は死よりも地獄に近いと述べているところに注目してみましょう。実はメルツァーの著作には、このように精神分析概念を日常語に落とし込む記述が随所に見られます。これぞメルツァーの真骨頂と言ってもいいと私は思っているのですが、それは分析セッションにおける情動的リアリティが治療作用として大変重要だと考えているからです。

一見すると、細かすぎて意味のない分類に見えるかもしれませんが、分析セッションにおいては、その違いが物を言うのです。現在の苦しみが未来永劫続いていくという、未だ言語化できない空想にクライエントが苦しんでいるとき、「死ぬほど辛いですね」と言われるよりも、「生き地獄ですね」と言われる方が、自分の情動に近く、よりリアルに自分の情動を自覚することができ、内的ワークが促される(たとえば、これまでにない回想が蘇るとか)といったようなことは、分析セッションではよく見られることです。

抽象的で圧縮度の高い記述の多いメルツァーですが、こういうところに彼の論考が生きた精神分析から導き出されていることが感得され、彼の著作に厚みを与えていると言えましょう。

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