潜伏期から見た青年期論

 ずっと続いてきた講義シリーズも最終講、第6講「青年期」となります。青年期論もメルツァーの重要な業績の一つですが、その1960年時点での考えを垣間見ることができます。元文献はこちらです。

Meltzer, D. (1960/1994) Lectures and seminars in Kleinian child psychiatry. in Sincerity and other works. Karnac Books. London. 75-89.

ではまず要約してみましょう。

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心的装置は何らかのエネルギーで動く構造というよりも情報を扱うコミュニケーション装置であり、入力される情報を取り扱えるかどうかによって、混沌から秩序に至る連続体上で、現象が生起する。この観点から見ると、潜伏期とは、心的装置にとって最も御し難い性欲動からくる情報を縮小させるための期間である。それはエディプス・コンプレックスの通過ではなく迂回であり、内的なものと外的なものを分裂させることによって成り立っている。物理的に親との接触が減ることも重要な要因である。

実際には、潜伏期を達成できていない子どもは非常に多い。内的対象関係と外的対象関係を区別できず、外的両親とも親密な接触を続けるため、内的な両親への乳幼児的な転移をさらに強めてしまう。潜伏期を達成できない子どもは、思春期・青年期の到来とともに増大する内的刺激と外的環境の変化に打ちのめされる運命にある。潜伏期を確立できるということは、内的対象関係と外的対象関係をある程度区別して引き離すことで制御する能力を示している。このことが重要なのは、思春期・青年期においては、自己や対象へ向かう破壊衝動を外的世界において実現しうる身体能力を持つに至るからである。

(この潜伏期が達成できない子どもという話は、不登校が多い日本社会にも大いにあてはまるところがあるように思われます。不登校になると、自宅で親と接する時間が増えるため、内的両親と外的両親の仕分けが困難になり、ますます学校や社会に対して内的両親像への不安が投影されるようになり、不登校が遷延するという悪循環です。逆に、不登校であっても、自宅で親とだけ過ごしているわけではなく、友達付き合いや趣味活動に勤しんでいる子どもは、潜伏期を達成していると言えるわけで、次に出てくる3つ目のタイプの思春期・青年期を迎えることができるかもしれません。)

これを踏まえて、青年期の主要な3つのタイプを述べる。1つ目はかつて一度も潜伏期を達成したことがないグループ。彼らは精神病的破綻の寸前で右往左往している。治療が始まると急激に迫害不安か理想化が発展し、入院に至ることもあるが、治療者が精神病を発症させたというよりは、彼らにとっては人と二人でいること自体があまりにも負担が大きいということである。2つ目は、潜伏期に入ったものの、青年期において乳幼児的な破壊的侵入空想が完全にリバイバルするグループ。彼らの動機は両親への乳幼児的な仕返しに満ちており、両親を墓に葬ってやろうとして、性的でサディスティックな徒党を組むことに全勢力を費やす。3つ目は、両親との平和を維持するための分裂を経た上で、乳幼児的な好奇心と羨望が復活するグループ。彼らは徒党を組まず、投げやりと高揚感、抑鬱と禁欲主義を行ったり来たりする方向へ行く。

(1つ目のグループは精神科的対応が必要で、結果として臨床化しやすく、2つ目のグループは非行化しやすいので臨床化するのは問題がこじれたあと、3つ目のグループがいわゆる青年期でしょうか)

2つ目のグループは、多くの場合、両親が彼らをもてあまし、これ以上耐えられなくなって、治療に連れてこられる。予め形成された転移により、治療者も始めから両親同様、時代遅れの老いぼれと見なされるので、彼らにとって復讐の対象となる。彼らは治療者に一切情報を与えず、焦らし、からかい、無力で愚かに感じさせる。3つ目のグループは様々な症状を展開させたとしても、それらは心因が明確であることが多く、両親もそのことを了解しており、そもそも治療に連れてこられないことも多い。分析においても、成人患者の分析と同様の過程を進む。

青年期において妄想的な同一化が素早く起こる要因の一つは、彼らの身体的変化が乳幼児的な両親の身体への侵入空想と結びつくからである。彼らの内的な両親の姿は、中年を迎えた外的な両親よりも、若々しく美しい彼ら自身の身体に似ているのである。

臨床例1:16歳の女性

最初のセッションからカウチに飛び込むように横たわり、いきなり悪夢の話に飛び込んでいく。その悪夢が、部屋に閉じ込められて巨大な梁で潰されそうになるという内容であった。

メルツァーの覚書:患者は治療者の内部へ飛び込み、面接室は治療者の内部となった。一方、面接室内の治療者は願望と疑惑がないまぜになった部分対象なっている。

昼間に閉所恐怖が起きたときは、外を見て落ち着きを取り戻すと患者は話す。

メルツァーの覚書:よい対象を求めるよりも、目の前の迫害対象をなだめにいきがち。

夢から醒めた後でも、夢はすごく鮮明だったと話す。

メルツァーの覚書:青年期の混乱によって、悪夢の世界が覚醒生活に侵入してきている

治療者をじっと見つめる患者に対して、治療者は、治療者をよく気がつく母親としてキープしておかないと、後ろから梁のような父親に潰されるという不安を解釈。

メルツァーの覚書:全体対象のエディプス不安の解釈になっており、部分対象の不安に触れていないので、一時的に接触が失われた。

治療者は、治療者の弱さ、治療者への不信を解釈していき、患者は、求めているのは強い人だと話し、ダンスパーティーで見たかわいい女の子への嫌悪と、患者が身投げしないよう部屋の窓を紐で縛っていた母親を連想。

メルツァーの覚書:性的母親の内部は梁のような父親ペニスの侵入によって安全でなくなり、性的母親−治療者への疑惑が強まっている。それは、紐で縛ることで赤ん坊を内側に留め、ペニスを外側に閉め出しておく母親とは対照的。

治療者が性的母親と守ってくれる母親の分裂を解釈したことで接触は回復したが、患者はセッションが終わっても起き上がれず。さらに治療者が、赤ん坊が生きる準備ができる前に内部から押し出される不安を解釈し、患者は治療者への信頼を取り戻し、セッションを終わることができた。

メルツァーの覚書:母親転移における分裂を解釈したことで接触は回復したが、閉所恐怖が解釈されるまで患者は終了に抵抗を示した。

メルツァーのまとめ:患者はモチベーション高く治療的資質もあるが、いまだ母親の内部にいて、生きることの責任を引き受けられない。循環気質を伴う重度の強迫神経症。資質があるにもかかわらず、真実に邁進するよりも迫害者を宥めすかして賢しらに妥協してしまう。しかしそれは深いところでの分裂からくるもので、至るところで分裂が起きていたり、強烈な投影同一化によるものではない。閉所恐怖的状況が克服されたところで強烈な分離不安が起きるだろうから、依存関係を維持して広範な治療効果を得るには週4〜5回で3〜4年の治療が必要。患者は3週間の早産で、母親が乳房膿瘍になったため母乳での授乳は4週間で中断され、母方祖母に預けられた。以後、祖母が育児の主要な役割を担った。父親は軍役のため、患者が2歳半になるまで一度しか患者に会ったことがない。よく泣く繊細な赤ん坊で、学校に上がる前に悪夢に悩まされたが、学校に適応してしまうと以後は問題なく育った。12歳のときに、嚥下不能、悪夢、睡眠時遊行、正常な生理の未確立、抑鬱、自殺傾向が急性に生じた。


臨床例2:14歳の女の子

患者は自分には問題はなく、黒いタイツやヒールを履くことについて両親が賛成しないだけだという。父親はヒールは足によくないというのだと。治療者は、両親と治療者が患者の成長を許さないと思っていると解釈する。患者は学校の友達はみんな許してもらっているが、母親は黒が嫌いなのだという。治療者は、治療者の趣味嗜好を押し付けられると思っていることを解釈。

メルツァーの覚書:解釈は正しいが羨望と偽善に触れていない。母親‐治療者のセクシュアリティの欠如、父親‐治療者のセクシュアリティへの恐怖こそ、患者から疑われているものである。

患者は笑いながら、水泳でうまくいかなかったが、父親は貧血のせいだというと話し、部屋の窓から教会の尖塔は見えるかと聞く。治療者は、治療者のやり方は馴染まないので、考えなくてもピルを飲めば済んでしまう父親のようなやり方に戻ろうとしていることを解釈。

患者はハンカチを忘れたというが、治療者が勧めるペーパータオルは断り、絵を描くがどれも「うまくいかない」。パンツスタイルの女性、いかめしい女性の顔、男の子と女の子がスケートしているところ、高級店街でショッピングする女性。治療者は、キレイになってボーイフレンドが欲しいという気持ちを、自己中心的な母親から不満に思われており、治療者もそんな母親と一緒だと解釈。

メルツァーの覚書:この解釈も正しいが、尖塔の解釈が患者の羨望を呼び覚ましたところまで遡っていない。

メルツァーによるまとめ:子ども時代の剥奪に対する両親への復讐に駆られた青年期の姿。超自我は過度に厳しく、偽善的で、自己中心的であり、それが外的両親に投影されている。潜伏期は実はこのような超自我の支配下にあったということ。乳房への羨望を分裂排除し、父親とアンビバレントな結託をしている。妄想分裂ポジションの部分対象関係が優勢で、温かさはほとんど見られない。軽度の分裂パーソナリティで、破綻することはなさそうだが、外傷を閉じ込めておくのに必死。分裂気質の平板さと、青年期グループとのパラノイア的な団結が治療上厄介な問題となる。本当の意味で不安に触れるまでは週2,3回でいいだろうが、治療は非常に長期間を要する。患者による挑発、要求がましさ、癇癪、非行の脅しにより、両親の生活は悲惨なものになっており、患者は無責任で事故傾性があり、学校では怠学傾向。父親は専門職で順調に人生を歩んでおり、患者は一人っ子だった。8か月間の母乳保育の間は順調だったが、離乳は固形食を何時間でも口に入れたまま食べようとしなかった。一人になれず、定期的に便秘があった。保育園では攻撃的だったが、7歳で女学校に入ると落ち着いた。9歳で3か月間ギプスをはめなければならなず、就眠儀式が始まった。10歳半の時に分析を勧められたが、寄宿学校に入れられ、患者はそこから脱走した。

(2例目がさきほどの2つ目グループ、1例目は症状は出ていますが、どちらかといえば3つ目のグループでしょうか。ただ、自殺企図などがあったようですので、1つ目のグループの要素もあるのでしょう。違いは内的なワークへのモチベーションのように思われます。1例目は治療者の不正確な解釈には不安を示し、より的確な解釈には安心しています。2例目は、連想の進展は見られるものの、治療者の解釈に対して些か反抗的に反応しており、内的にワークするよりは学校で徒党を組んでいたいようです。)

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要約は以上となります。

潜伏期(概ね小学校の期間)は、抑圧構造が完成し、あまり葛藤することなく知的活動や趣味活動、運動などのスキルアップに楽しく勤しむことができる安定した時期とされています。ただし、それは思春期に性衝動の高まりや性への関心とともにエディプス葛藤が再燃するまでの間の一時的な棚上げということです。棚上げにできるということ自体が一つの発達的達成ではあるわけですが、メルツァーはこれを内的対象関係と外的対象関係の分裂と言っています。これは、抑圧構造の完成と言っても、成熟した状態に比べれば、抑圧が硬直化して現実しか見なくなっていることを示しているのかもしれません。たしかに、おとなになると、同じ抑圧でももっと内的な空想や、小説、映画、芸術作品など象徴的素材に関心が向き、時と場合によって抑圧を強めたり緩めたり、内界と外界を柔軟に行き来できるようになる気がします。それに比べると、潜伏期というのは内的なテーマを先延ばしにするために必死に外の世界にだけ目を向けている状態と言えなくもないのでしょう。

クラインは乳幼児期にすべてが決まると言わんばかりの理論構成ですが、メルツァーはクライン派の割には、「いうても子どもは子ども」というか、乳幼児期から思春期・青年期、そして成人へと至る生涯発達論を想定しているように思われます。もちろん、ミクロな視点では、乳幼児期の子どもの中にも成熟した成人部分を見るということもありますが、マクロな視点では、抑鬱ポジションが本当に達成されるのは両親を亡くした後だと言ったりもします。これは、ある意味では、人間は生涯発達しうるという楽観とも言えるでしょうか。

ところで、安定しているとされていた潜伏期ですが、現代の臨床現場では小学校の頃から問題山積という感じで、メルツァーが言う通り、潜伏期もそんなに当たり前のものではなくなっているのかもしれません。スクールカウンセラーが配置されるようになったのは中学校からですが、当時はまだ、小学生は安定しているという先入観をおとなたちが維持できるくらいには、見て見ぬふりができたのかもしれません。今や、小学校のスクールカウンセラーも大忙しです。

現代の発達において潜伏期なんてもはやない、と言ってしまえばそれまでですが、潜伏期で達成されていたのはなんなのか、それがないことは何を意味するのか、と考えることは、現代の臨床的問題を考えるうえでもなお有用でしょう。

メルツァーは情報処理の観点から述べていますが、性衝動や、内的両親への侵入空想と閉所恐怖、羨望が投影された両親への不信、足を引っ張られることへの恐れなどといった話は児童期の子どもの情報処理能力を超えるので、いったん遮断される必要があるということのようです(乳幼児の場合は抑圧が完成しておらず、これらの素材が剥き出しなので、おとなが肩代わりして処理することが必要です)。

この情報処理能力の限界という観点から、現代の子どもに人気のアニメ、漫画、YouTube作品などを見てみるとなかなか示唆的であるように思います。昨今のそれら作品群には、際限のない不信と裏切りのスパイラル、羨望による足の引っ張り合い、死や殺人、混沌と混乱などが描かれています。これに関して、勧善懲悪のような子ども騙しではなく、人間の複雑さがしっかり描かれるようになったのだ、子どもたちももう勧善懲悪では飽きたらないのだ、という意見もあるかもしれません。しかし、小学生の情緒的・認知的情報処理能力が20年ほどで飛躍的に増大するとも思えません。

上記のようなテーマは、どちらかといえば、人間の複雑さというよりは、乳幼児的な妄想分裂的世界そのものという感じがします。というのも、人間の複雑さを体現すると言っても過言ではない抑鬱ポジションのテーマはあまり現れないからです。人間の複雑さというのであれば、妄想分裂ポジションと抑鬱ポジションの往復運動こそ描かれてしかるべきですが、上記作品群はむしろ、信頼などないという、ある意味「単純な」世界を反復的に描き続けているようにも見えます。

つまり、人間の「裏」や「闇」を描いたような上記作品群が子どもたちにウケているとしたら、それは子どもたちが複雑さを求めているからではなく、乳幼児的な妄想分裂的世界を処理する能力を持ち得ないまま、受動的にそこに晒され続けているからかもしれません。一見、求めているように見えるのは、興奮させられているからかもしれません。

勧善懲悪モノも、「よい」と「わるい」の分裂に基づくものですが、これはクラインやメルツァーが言うところの、「分裂と理想化」であり、よい対象があるという確信を育て、統合に向かうための発達段階としての分裂です。情報処理という観点から言えば、複雑で洗練された分類学を構築するための基礎となる、最初のわかりやすい分類です。その意味では、勧善懲悪モノを楽しめるというのは、そのような基礎的な分類学がある程度達成されていることを示すものとも言えるのかもしれません。いくらかの葛藤の末、ハッピーエンドに至るという子ども向けの物語は、「分裂と理想化」を経たあとの、いくらかの抑鬱ポジションのワークということになるでしょうか。一方、分裂と理想化が成立しないと、よい対象なのかわるい対象なのか区別できず、よい対象の中にわるい対象がいたりして、これはそのまま不信と裏切りの妄想的世界です。

いつまでたっても勧善懲悪モノしか楽しめないというのも、それこそ人間の複雑さを理解するのにもう一歩、ということころでしょうが、だからといって、最初から「裏」や「闇」を見ていれば複雑さを理解したことになるというわけでもないでしょう。信頼や他者とのよき出会いはある、という希望のもとに、自己不信や他者不信と格闘していくことが人間の複雑さなのであり、不信しかない世界というのは複雑さというよりは寄る辺なき混沌です。

もし潜伏期が喪失しつつあるのだとしたら、そのことが意味することの一つは、複雑な人間や世界を理解していくための分類学の基礎がないまま、子どもたちが混沌とした情報の洪水に飲まれてしまうおそれがあるということかもしれません。

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