試行錯誤の始まり?

 今回はタビストックで行われた講義シリーズの第5講「幼児自閉症」を取り上げます。元の文献はこちらです。

Meltzer, D. (1960/1994) Lectures and seminars in Kleinian child psychiatry. in Sincerity and Other Works. Karnac. 65-75.

メルツァーはこの15年後にExplorations in Autismを出版するわけですが、そこに至る前の試行錯誤の跡が垣間見られるような講義です。ではまず要約してみます。

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自閉症は1940年代にレオ・カナーとバーバラ・ベッツによって記述された。「自閉」という用語はオイゲン・ブロイラーが使用したものだが、これはフロイトが記述した一次過程と二次過程の分類に基づいており、自閉的思考とは一次過程が優勢な状態とされた。

自閉症の子どもの特徴は以下の通り。紹介理由は低知能、緘黙、盲、聾など。行動は秩序だっておらず、人との関係と物との関係が同様で、椅子に登るのと同じように人に登ったりする。感情は調節されておらず、一瞬で過ぎ去り、ふつうでない表現か、ステレオタイプな表現になる。音とジェスチャーに関して万能的な考えを持っているようである。行動が反復的で、物を壊したり、人を傷つけたりしてしまうが、破壊的な意図をもって協調的な運動ができるようには見えない。多くの場合、第一子か一人っ子で、両親とも専門職であることがほとんど。外見は洗練されており、知的能力に問題があるようには見えない。写真だけ見ると、健康な子に見える。

自閉症は通常認識されているよりも頻繁に見られ、臨床上の問題の深刻さの割には予後は良好である。

統合失調症的な子どもとの比較。統合失調症的な子どもでは、破局によって断片化した自我と対象が凝塊化し、奇妙な形を取っている。自閉症では、徹底して統合がない。運動面で言うと、統合失調症的な子どもは洗練された動きと常軌を逸した動きが入れ替わり現れるが、どちらも高度なスキルを要する動きではある。

情緒接触が持てた場合には、自閉症の子どもは情動豊かで愛情を向ける能力がある。統合失調症的な子どもは機械のように冷ややかな内的世界を持っており、治療者と接触を持ったことに対して迫害的になり、憎しみを向ける。自閉症の子どもでは、接触が確立されると、並外れて一定不変のパターンができあがり、何度でもそれが繰り返される。

(このあたりの、接触が持てるという記述は、現代からすると些か違和感があるかもしれません。この時点では付着同一化という概念がないので、子どもが治療者の解釈をなぞるように反応することと、それを情緒的に理解して内面と内面の交流が生まれることとの区別が曖昧なまま、「接触」という言葉が使われているように思われます。ここで強調されているのはむしろ、精神病的な子どもに比べてはるかに素直な反応を示すということでしょう。)

ある自閉症の男の子のケース。父親は医師で、母親は看護師。2年間の治療で顕著な改善を見たが、治療はクリニック内に収まらず、天候によらず庭に出て治療を行い、その2年間で庭は悉く破壊されてしまった。

(自閉症へのアプローチとして、このやり方が適切だったかどうかは、現代から見ると疑問です。もっと枠組みをはっきり示すこともあってよかったでしょう。ただしここで注目すべきは、ここでのメルツァーのように、どこまでも患者が出してくるものについていこうとする臨床姿勢です。クライン派は技法に厳格というイメージを持たれがちですが、それは精神分析に信を置いているという意味でそうなのであって、臨床において解釈以外なにもしないというわけではありません。このケースはメルツァーが精神分析家になる前のケースだそうですが、なったあとのセミナー講師の立場でもこのケースを出すわけです。)

この子たちが必要としているのは大量の投影に持ち堪えられる人である。先のケースで投影されていたのは、世界が木っ端みじんに破壊されてしまうという不安だった。私は庭だけでなく身も心もなにもかも破壊されてしまうと怖れたが、実際にはそうならず、次第に破壊性は収まり、愛着が現れてきた。他の自閉症のケースも似たような経過を辿った。このような予後のよさは、彼らが抑鬱感情に持ち堪える力を持っていることと関係している。

(このあたりの記述も、いまだ自閉症に特徴的な感覚世界、心的世界を理解するには至っていないようです。投影同一化の世界で理解しようとしており、迫害不安が複雑化せず、長続きもしないことから、抑鬱ポジションの優勢という推論になっています。)

このことから病因論を振り返ると、母親が死の本能の受け取りに失敗したことが病因の一つだというのは疑わしい。確かに、自閉症の子どもの母親はほぼ例外なく産後鬱に陥っているが、産後鬱は非常にありふれた病像であり、産後鬱になった母親の子どものほとんどは自閉症の臨床像を示さない。自閉症の子どもは生まれつき非常に敏感で、愛する能力が非常に強いという臨床的な印象があるが、彼らは母親が抑鬱によって投影を受け取れなくなっていることに対して、投影を引っ込めようとするのではないか。その結果、乳房との関係を形成することができず、統合過程に入っていけないので、未統合のままになってしまうのではないか。

(ここに、この後の自閉症世界の理解につながる臨床的観察が示されています。過敏性と対象に手を伸ばすことの困難です。この時点では、後者は母親の抑鬱状態に対する反応として理解されています。母原病説からの脱却という文脈では、母親の抑鬱を原因ではないながらも、いまだ誘因として捉えています。しかしながら、親子の相互作用という文脈で言えば、親の反応と自閉的な特性ゆえの受け取りというニュアンスを捉えているとも言えるかもしれません。また、この時点では自閉症の子どもは投影できるのだけれども母親を気遣って引っ込めているのだという理解です。)

抑鬱的になっている母親は子どもに情緒的に何かを与えるという考えを持てないまま、おっぱいや哺乳瓶を与えることになる。これは子どもの側からすると、握手の時にグニャグニャで力のない手を差し出されたような体験だと思われる。そのような手に対しては何もできないと感じるのではないか。それは自分に対して攻撃的なわけではないが、かといって手離したら相手を拒否したことになってしまいそうなので手離すわけにもいかず、しかし強く握ることで不用意に誘い込むこともできず、いわゆる握手のように強く手を振ればこちらが張り合おうとしているように感じさせてしまうかもしれない。このように、無力で脆いと感じられる対象に対して、彼らは敏感に反応して、それ以上試みることをやめるのではないか。乳房を投影対象として使えなくなる結果、統合が起こらず、乳房を活用できないので、「飼い葉桶の犬」のような熱狂的な所有欲にもつながる。

(子どもが投影を引っ込めているのだという理解ではありながらも、異なる文化の住人との接触における不可解さという、自閉症といわゆる定型発達の人との出会いに特徴的な体験を描き出しているようです。また、ここで自閉症側の体験として描かれているグニャグニャの手を差し出されて何もできなくなってしまうという葛藤は、後にタスティンがアメーバ様と述べたり、アルヴァレズが描き出しような、受身的で志向性を持つことが困難な自閉症の子どもと接触するときの治療者側の葛藤とも言えそうです。)

クライン理論はこのような早期の過程を描いている。最初に乳房に投影し、よい乳房とわるい乳房に分裂することは、自我にとって救命装置なのである。よい対象とわるい対象が分裂することで、よい対象との同盟と悪い対象に対する防衛が組織化され、統合が可能になる。

臨床例

6歳9か月の男の子

母親から離れるとき、「お父さん」のようなことをブツブツ言う。親指を口に入れ、庭へ出るドアのところへ行き、ドアノブを嚙む。

解釈:親指と庭とドアノブはお母さんで、それは欲しいんですね。私という人はお父さんで、それはいらないんですね。

患者は部屋中を走り回り、拳で床を叩く。唸り声をあげ、親指を噛む。

解釈:だけど、お母さん部屋は赤ちゃんでいっぱいだったから、噛みついて追っ払ったんですね。

「おしっこ、おしっこ」というようにがなり立てながら、そこらを歩き回り、治療者の椅子やカウチ、洗面台によじ登る。洗面台ではマグカップに水を注ぎ、チビチビ飲んではペッと吐き出す。またマグに水を注いだかと思うと捨てる。テーブルに噛みつき、鉛筆に吸い付き、鉛筆を嚙み砕くと投げ捨て、口の中に残った鉛筆のカスは床に吐き捨てる。陽気に踊りまわる。

メルツァーの覚書:治療者は、患者が面接室を対象の内側として体験していくプロセスを解釈しています。患者は数々の万能的な武器でここを完全に占拠しようとしています。それらの武器は主として数えきれないほどの赤ん坊たちに狙いを定めています。そして、父さん‐ペニスを表すところの治療者は無視されています。しかし、お腹を満たそうという患者の試みは不首尾に終わったので、ペニスへの攻撃と躁的な勝利感が続きます。

解釈:あなたはこの部屋も私も怖くないし、私が何を言っても平気なフリをしているけど、お母さんの中にある赤ちゃんやお父さんのペニスを噛み砕いて吐き出してしまったから、お母さんのおっぱいは恐ろしいウンチやオシッコでいっぱいになってしまいました。

患者は治療者のところへ来て擦り寄り、抽斗のところへ行って白馬と車のオモチャに吸い付き、それらを落としてしまう。窓の外を見て叫ぶように笑い出し、部屋から走り出ようとする。

メルツァーの覚書:治療者が躁的な勝利感は乳房への迫害不安の防衛であると解釈すると、閉所恐怖に直面したことによって、ほんの僅かだが、非常に洗練された偽善的態度が生じたようです。患者は再び勝利感に浸ります。

解釈:恐ろしい悪者になったウンチでいっぱいのお母さんを、うまいこと誤魔化して逃げおおせようというわけですね。

患者は部屋に戻るとカウチに飛び乗り、うつ伏せになってマスターベーションを始める。

解釈:あなたはもうママがそんなに怖くなくなったけど、パパや他の赤ちゃんたちにいいミルクをあげちゃうもんだから、ママ先生のことが嫌いなんですね。

拳で床を叩き、そこらに唾を吐きかけながら歩き回る。一回りする度にカウチに戻り、治療者に唾を吐きかける。

メルツァーの覚書:このあたりから、患者はさっきまでよりも母親の外側に出てきたようです。それに伴って、治療者を自分の一部だと体験しています。カウチが性器で、洗面台が乳房です。しかし、これら断片化された対象は、専ら患者の内側の悪性の小片を投影するために使われています。

解釈:あなたは壊れてバラバラになったおっぱいの欠片を、自分の中からお母さん先生に向かって吐き出しているんですね。

患者は静かに座り、洗面台でマグに水を入れて飲む。また水を入れて、今度はこぼす。治療者に愛情を表現し、キスをする。

解釈:全てのミルクをあなたのためだけにとっておいてくれるなら、お母さんおっぱい先生を好きになるよっていうことなんですね。

粘土を取って、噛んでは吐き出す。ときに大きな塊でそれをやる。退室することに気乗りしない様子である。

メルツァーの覚書:一つ目の解釈によって、彼はマグカップ乳首から水を飲むことができるようになり、治療者との強力な陽性の接触が生まれました。しかしそれは誘惑的でもあって、そのことが解釈されるや、乳房を貪欲に噛み千切ることに置き換わり、分離に難色を示しました。

(圧縮された記録なので、細かい部分でのやりとりが不明ではあるものの、解釈への反応があるような、ないような、一応、何か返ってきているけど、解釈の内容とのつながりがどれほどあるのかは未知数というセッションのようです)

力動的な意味合い:治療者は患者が解釈に反応していると思っているが、この時点ではなんともいえない。1年半の治療を経て、そうであったと言えるようになったのであるが。この子は極度に抑圧的な願望に支配されていて、対象との関わりは全面的に投影同一化に拠っている。その結果、閉所恐怖に襲われ、躁的防衛と万能的な誘惑で対処する。彼の対象ははっきりした姿かたちを備えておらず、彼の自我全体の非常に小さな乳幼児的な欠片を見ているだけなのではないかと疑わしくなってくる。母親の身体に対する所有欲に満ちた貪欲さと嫉妬に支配されている。取入れ関係を形成できないのに、排泄に専心しているので、対象希求が強烈になる。

(「抑圧的な願望に支配され」「投影同一化に拠っている」というのは、いわゆる遊びの表現にならず、意味を考えることが専ら治療者側のワークになっているということでしょうか。これを考える機能が治療者に投影されていると見るか、この子は一般的な意味で考えることが困難と見るか。対象の姿がはっきりしないというのを、ここではやや防衛として捉えたい願望が垣間見えますが、観察は自閉症の特徴に接近しているようです。)

治療的な含み:統合失調症的な過程の証拠はない。用心深く、対象希求的。躁的防衛を圧倒するほどの迫害不安は見られない。週5,6回の長期の分析と、特別な学校教育、入所施設でのケアが適切。

生育歴:専門職家庭の第3子。外国で生まれ、5か月の時に母親が重度の黄疸になり、突然の離乳となった。1歳まで外国人の乳母に育てられ、その時点で歩くこと、いくつかの言葉を話すことができた。25ヶ月で臍帯部の手術を受け、32か月で下の子が生まれた。これらはどちらも非常に外傷的だった。3歳の時に、機能水準が知的欠陥のレベルであると認識された。

症状:ほとんど緘黙。怒りの爆発があり、紋切り型の行動様式。教育困難で身辺自立は全くできておらず、あらゆるものを口に入れてしまう。行動は破壊的で、社会化されていない。入眠時の障害がある。人前でマスターベーションをする。

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全体を通して、現在から見ると「何をやっているんだ・・」と言いたくなるかもしれませんが、それは概念と技法の持ち合わせが投影同一化を基礎とした精神分析理論しかないからですね。それでも、その概念と技法では収まりきらない臨床観察が随所に見られます。過敏性、対象に手を伸ばせないこと、一般的な意味でまとまりをもった遊びや行為を構成できないこと、反応はあるが意味的なつながりがどこまであるのか不明確であること、などです。

これらの臨床観察が、後にビックの「皮膚」の概念と結びついて、境界を持った内側と外側という構造化の障害という発想、ひいては次元性や付着同一化として精緻化されてくるわけですが、その元となる観察の萌芽が見られる講義と言えるでしょう。

臨床例において、一般的な意味で、解釈と反応の結びつきは今一つ不明確でありながらも、なんとなく子どもは面接室に居つくようになっていく流れに見えます。これは、一つには、多くの人が意味が分からず戸惑って黙るか、行動を制御しようとして叱責するかという反応にいきがちかと思われる子どもの行動に対して、一貫して意味あるものとしてコメントし続けるタフネスが、僅かながら、何らかの点で、子どもの関心を引き出しているということがあるかもしれません。

これを、メルツァーは患者からの莫大な投影に持ち堪えることと理解していますが、その理解自体が、治療者が生き残るためのある種の空想かもしれません。実際は、投影に持ち堪えるというよりは、投影のない世界に持ち堪えることが治療者の課題であるようです。投影を読み解くというのは、精神分析のいわば武器であったわけで、投影のない世界で治療を行うというのは、いわば、魔法が無効化されたフィールドで、魔法使いが戦うようなものです。そしてこの体験は、多くの人が投影同一化という魔法を使っている世界で、自分はその魔法を使えないという、自閉的な人の日常生活における体験の裏返しになっているように思われます。

また、自分には魔法が使えないという自覚がないまま魔法の世界にどっぷりつかってしまう不幸というのもあるように思われます。コントロールできない魔法の力に翻弄されて、木の葉のように巻き上げられてしまうのです。治療者は魔法がやりとりされているのだと思っていますが、実際は治療者側の魔法だけが縦横無尽に荒れ狂っているのであって、クライエントが魔法を使っているように見えるのは、巻き上げられた木の葉のようなクライエントを、自分の力で飛んでいるのだと勘違いしているのです。湯婆婆の魔法が支配する湯屋では、カオナシは肥大化してしまうのです。魔法を最小限にしか使わない銭婆のところではカオナシは落ち着いています(カオナシと自閉性との関連は、福本修先生がどこかで書かれていたものです。うろ覚えで、きちんと出典をお示しできず申し訳ありません)。

このようなことが起きやすいのは、思春期・青年期や成人以降のクライエントとの治療ではないかと思われます。言語による会話が可能であることが一つの要因でしょう。治療者は、ふだんから呪文を唱えて(言葉を使って)魔法を放って(投影同一化して)いるので、クライエントの呪文(言葉)にも魔法(投影同一化)の力があると思いやすいわけです。しかしながら、現実には私たちが「メラ」と唱えたところで火花さえ散らないのと同様、魔法(投影同一化)を発していない呪文(言葉)というのもあるわけです。相手が魔法を使っていないなら、自分だけ魔法を使うのはフェアではないでしょう。

さて、少し話が横道に逸れましたが、その後の研究成果を知っている現在から振り返ってみると、臨床観察が理論と技法を発展させていくのだということを如実に感じられる講義であったと思われます。

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