「外的」の意味の仕分け

 今回はこのところの連続シリーズとなっているタビストックでの講義とセミナーの第4講、心気症についてのセクションです。元の文献は下記のとおりです。

Meltzer, D.(1960/1994)Lectures and seminars in Kleinian child psychiatry. Sincerity and Other Works. Karnac. London, 35-89.

この中の56〜65ページ、「心気症概念を統一する」と題されたセクションを取り上げます。子どもは身体的な訴えをすることが多いです。ここでは様々な心気症的な訴えを、内在化された対象との関係の持ち方から、重さや性質についてアセスメントしようというテーマです。ではまず要約してみましょう。

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メルツァーはまず、大まかな見取り図として、発達段階的に言えば、身体への愛情に基づく心配という最高次のものから、身体への憎しみや身体妄想といった病理形成物まで幅があると述べます。そして、発達的に高次のものから順に次の6つを挙げます。

(1)心気症的懸念

(2)身体感覚の動揺

(3)迫害的心気症不安

(4)心身症的障害

(5)真性の心身症

(6)身体妄想

(1)は身体のサイズやバランスを強迫的に気にすることのようです。(2)はおそらく器質的な原因の不明な身体感覚の訴えのことを述べているようで、くすぐったいといったものから、疼痛障害のような痛みの訴えまであるようです。(3)は(2)の訴えがより迫害的で強烈な不安を伴うようになったもののようです。(4)は運動系や分泌系に実際に機能障害が起きるとされます。(5)は組織病変を伴う(おそらく胃潰瘍など)、心理社会的要因が深く関わっている身体疾患としての、いわゆる心身症のようです。(6)は(5)までの系列とは少し次元が違うものとして、後で詳述するとされますが、臨床例を見る限り、いわゆる自己臭恐怖を指しているようです。

(心身症がかなり重い状態とされていることに違和感があるかもしれませんが、実際に組織病変が生じるということから、内在化された対象への攻撃や、内在化された対象からの仕返しといった空想が空想で収まらずに実際に身体を破壊してしまうというところに病理の重さを見ているようです。心気症というスペクトルに入れて考えれば確かに重いということになるかもしれません。また、臨床上でも心身症の患者さんは感情の自覚が乏しく、心理的アプローチでなかなか変化しないということは言えるかもしれません。)

次いでメルツァーは、心気症症状を内在化された対象との関わりの質から理解するための前提として、取り入れ過程について述べます。取り入れ過程にも愛情的なものからサディスティックで支配的なものまであります。愛情的に取り入れられた場合、対象は内在化されますが、外的世界にも残ります。また、内在化された対象には心の中(身体の中と空想される)で住処が与えられ、対象は心あるいは身体の中で自由に動き回ることを許されます。一方、サディスティックな動機に基づく取り入れでは、嫉妬や妬みから対象を外的世界から完全に排除してしまおうとします。心あるいは身体の中でも自由を奪われ、閉じ込められます。自己は対象をこのように支配することに躍起になって、せっかく対象を取り入れても、その生産性を協力的に利用することができません。

クライン派の枠組みではやはり抑鬱ポジションと妄想分裂ポジションがどの程度優勢かという観点から見ていきます。抑鬱ポジションでは、不幸な状態にあると感じられている身体器官(内在化された対象)への心遣いや心配が不安の中身であり、動機はその身体器官を癒やしたいということです。その身体器官の損傷が癒せないほどであると体験されるようになると、その傷を見ることが辛くなり、次第に迫害的な性質を帯びてきますが、まだ抑鬱ポジションの範疇です。妄想分裂ポジションになってくると、身体器官は傷ついているために迫害的になるのではなく、そもそも邪悪な性質を帯びていると体験されます。こうなると、動機はその身体器官を癒やすことではなく、除去することになってきます。

身体妄想はまた別の問題であり、通常の心気症は関係念慮を伴っておらず、対人関係に影響を与えているとは体験されないのに対して、身体妄想は身体形成上の何らかの歪みが対人関係に影響を及ぼしていると体験されます。

メルツァーは身体妄想の短い臨床例を挙げています。患者は当初、分析家に対して非常に猜疑的な態度を向けていました。数年の分析を経て、患者は人々が自分を避けるのは自分が臭っているからであり、それは肛門からオナラが漏れ出ているからだということを明かしました。さらに分析を続けていくと、分析家もセッション中、患者のオナラを耐え難く感じていると確信していることが明らかになりました。さらには、漏れ出ているのはオナラではなく自分の思考の一部であり、それは当初分裂排除されていた自己の一部から来るものであったと洞察されました。メルツァーはこの分析過程を、パラノイアが身体妄想として体験されるところまで分裂が緩和されたと述べています。

(やはり私たち日本の臨床家には馴染み深い自己臭恐怖ですね。思春期妄想症として括っていると心気症との関連をあまり考えないかもしれませんが、たしかに、症状の焦点が身体でありながら、一方は対人関係上の被害妄想を含み、もう一方は専ら自分の身体との関係に終始するという違いがあるというのは興味深い視点とも言えるかもしれません。)

メルツァーは身体妄想と心気症との区別を次のように述べます。身体妄想は自己の悪い部分を身体の一部に分裂排除したものであり、その結果、その身体部分が外的対象(周囲の人々など)との関係においてコントロールできなくなっていると感じられます。一方、心気症は、内在化された対象との関係の現われです。

(身体妄想において症状の焦点となっている身体器官は自己の一部なので、対象関係は外的な人間関係を舞台に展開される。心気症において症状の焦点となっている身体器官はそれ自体が対象なので、その身体器官との関係で対象関係が展開されることになり、外的対人関係には波及しない、ということでしょうか。)

臨床素材は7歳の女の子です。赤ちゃんのような振る舞いで可愛らしい猫かぶりをしています。治療者から玩具を好きなように使っていいと言われると、患者は固まってしまい、「縫い物をしてもいい?」と小声で聞きます。治療者は、「私がしてほしいことがわかるまで待っているんですね。それ以外のことをするのは何にせよ怖いんですね」と解釈します。

メルツァーによれば、偽善的に振る舞って迫害者をなだめすかすのがすでに常套手段になっているとのことです。

患者は不機嫌になって「何をすればいいの?」と聞きます。治療者は「好きなようにしなさいって言われると怖気づいちゃうみたいですね」と解釈します。

メルツァーのコメント:何も要求してこない相手をなだめすかすことはできないとわかると、患者のうわべの態度は砕け散ってしまいました。

患者はうっかりやってしまったという様子で玩具箱に手をぶつけ、固まって顔面蒼白になり「気持ち悪いの」と言います。急いでトイレに行きますが、吐くのではなくオシッコをしました。治療者は玩具箱を叩いた後に気持ち悪くなったことについて、玩具で遊んだら患者の中の気持ち悪さが外に出てきてしまうと心配になったのだろうと解釈します。

メルツァーのコメント:転移活動が噴出しました。患者は部屋に入るなり玩具箱−乳房に対して目で抉り取るような貪欲な取り入れを行った結果、玩具箱は迫害対象となり、患者の内側に仕返しの攻撃をしました。吐き気が排尿になったのは、身体開口部との関係が未分化であることを示します。

患者は怒りながらも、泣いているように目をこすって「どうしたらいいのか教えてくれない?」と言います。治療者は、「玩具箱を叩いちゃったから、悪い子だと思われるんじゃないかと心配なんですね。それで、自分は不幸なだけなんだと思ってほしいんですね」と解釈します。患者は部屋の隅へ行って背中を丸めます。治療者に背中を向けているので、何も受け付けないようです。治療者は、治療者が玩具箱の中の危険なものを患者に差し出そうとしたので、患者は赤ちゃんのようになって退散したのだと解釈します。しかし、この解釈はなんの変化ももたらしませんでした。

メルツァーのコメント:治療者が乳房転移における分裂を取り上げないので患者を安心させられません。その結果、理想化された乳房と迫害的な乳房の分裂が、内的乳房と外的乳房の分裂として体験され、理想化された内的乳房へのひきこもりに繋がりました。

(このコメントはメルツァーの地理の概念が本領発揮しているところでしょうか。単に患者の内界で分裂が生じているということだけではなく、理想化対象と迫害対象の分裂がどこで起こり、どこに位置づけられているかという視点です。患者は自分の中にあるのが理想化対象で、治療者の中にあるのが迫害対象だと感じているので、これ以上治療者と向き合う必要性を感じないのです。技法的には、先の解釈では迫害対象のみを取り上げていて、理想化対象を取り上げていないということもできますが・・。次の展開では、同じように理想化対象と迫害対象の分裂を扱っているものの、その位置づけが微妙に変わり、患者は妄想分裂ポジションのままでも、理想化対象が自分の中にだけあるわけではないことに気づいてセッションに留まるという進展が見られます。)

治療者は次のように解釈します「私に固い背中を向けて、お腹の方を守っていますね。そこに気持ち悪さが抱えられているのでしょう。そしてそれを私に見せるのが怖いんですね。そんなことをするくらいだったら、内緒でトイレに流してしまいたいんですね」。患者は、もう出て行っていいかと尋ねます。治療者は、「私から離れたいんですね。あなたが悪い子だから気持ち悪くなったりするんだって、私が責めるんじゃないかと思うものね」と解釈します。患者はロッキングチェアに座って揺れだします。

メルツァーのコメント:固さと柔らかさに関する解釈が患者の心に触れ、患者は外側にも何かしらいいものがあると感じることができました。しかし、患者はすぐにこれを治療者から分裂排除し、内側に引っ込めてしまいました(椅子で揺れること)。お腹の中で何かを守っているという解釈の結果、分裂が緩和し、よい乳房と悪い乳房が一緒になったときに、患者が出ていくと言っていることは重要です。

(部屋を出ていくという患者の反応から分析の進展を読み取るのは、臨床家の肝が座っていないと難しいかもしれません。実践上は、すでに転移が展開しているというプロセスの理解と、逆転移の吟味が物を言うのでしょうが・・。分裂が固定化して、もう見るべきものはないというように患者がひきこもった後に、「出ていく」というアクションに出たわけです。患者は分析に惹きつけられ始めています。しかし、慣れ親しんだ顔色窺いの猫かぶりを捨てるのも怖い。患者の中で綱引きが始まっています。そして、ひきこもりのためとはいえ、分析室の中の物を使って内的世界を表現し始めています。)

治療者の解釈「あなたはもう、この部屋にも何かしらいいものがあるって思っていますね。そこに掴まることだってできる。私から守ってもらうために、よいママに掴まるみたいにね。私はあなたを責めたり、叱ったりする悪いママですものね」。ここでセッションは終了。患者は部屋を出るとき、従前より迫害的でなくなったように見え、小声で治療者に「ゴメンナサイ」と言います。

メルツァーのコメント:この解釈がこの日のセッションを救いました。ついに対象における分裂が明確化されたのです。対象の性質と位置はまだ曖昧ですが、患者との接触は改善してセッションを終えました。「ゴメンナサイ」は、また来るからもう一回やりましょう、というリクエストだと理解できるでしょう。

メルツァーによるセッションの要約は次のとおりです。この子は部屋に入る前から迫害的な転移を形成し、防衛を準備していましたが、治療者から玩具箱を差し出され、それに惹きつけられている自分に気づいてしまいました。そこで抉り取るような貪欲な取り入れが起こり、それによって空っぽになった乳房への攻撃が続き、理想化された乳房と迫害的な乳房の分裂が生じました。後者はトイレすなわち治療者の中へ排泄され猜疑心に満ちたひきこもりが展開しました。背中を丸めて理想化された乳房を抱え込み、何も受け付けない背中を悪い乳房−治療者に向けたわけです。しかし、彼女は解釈まで全く受け付けないわけではなく、僅かながら外的世界からよきものを取り入れてセッションを終えました。

メルツァーによれば、彼女は妄想分裂ポジションからほとんど進展していません。彼女は夜尿でクリニックに紹介されてきましたが、それは迫害的な心気症であることが明らかになり、その症状は空気嚥下症とゲップというその他の排出方法と互換的でした。主な問題は分離や感覚的ニーズではなく、貪欲と羨望にありそうです。初期から強力な陰性転移をワークしていくために、週2,3回のセッション頻度で長期間治療を続けることが必要だろうという見込みが示されています。

患者の母親は、母親自身の原家族の中でナチスによる迫害の唯一の生き残りであり、興奮しやすく、無秩序で無力な人です。患者は母親から苦手な人物として扱われています。父親は患者に似て、愛想のいい猫かぶりで、誘惑的で身勝手な人です。このような背景から、治療の継続は困難ではないかと思われるかもしれないが、この例は家族背景や環境条件よりも患者自身の中で何が起きているかを評価しなければならない例の一つであるとメルツァーは述べます。

(患者自身の動機とポテンシャルもアセスメントしなければならないということでしょうか)

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前の講義で取り上げられていた、現代で言えば発達障害と言われるような子どもたちに比べて、この講義ではメルツァーも筆が走っているように見えます。力動的に理解可能な、投影同一化に基づくコミュニケーションを前提に考えられる相手ということでしょう。

講義部分で取り上げられている身体妄想は、私たち日本の臨床家にとっては、思春期妄想症の一つとして馴染み深い自己臭恐怖であると思われます。文化関連性が強いと言われるこの病態は、欧州ではあまり見られないものだったのでしょうか。なにか、身体にまつわる過剰な訴えの例外的ケースとして取り上げられている感があります。

馴染み深いということは、異なる視点で見てみることを怠りやすいということでもあります。この講義のように、心気症との絡みで見てみると、確かに同じ身体に関する過剰な訴えであるにもかかわらず、一方は身体の訴えに終始し、もう一方は身体の訴えが対人的な迫害不安に結びつくという違いがあるというのは興味深い視点かもしれません。

そして、この問題を対象関係という視点で理解してみると、心気症では身体器官が対象と同一化されているので、自分とその身体器官との間で対象関係が展開するけれども、身体妄想(自己臭恐怖)では身体器官は自己の一部なので対象関係はそこで収まらず、外的な対人関係において展開するというふうに言えるのかもしれません。

このことを、臨床素材に取り上げられているケースとも結びつけて考えてみると、メルツァーが「対象の位置」ということを重視していることが見えてきます。対象関係の地理と言われていることと関係が深い部分なのでしょうか。臨床素材においては、迫害対象が自分の「外側」にいる「治療者の中に」位置づけられていて、理想化対象が「自分の中に」位置づけられているときには、それ以上の展開が起きません。ある意味それは必然的なことでしょう。外に悪い奴がいて、中を守らねばならないときには、葛藤は生じません。そのままの状態を維持することが急務となるからです。

一方、理想化対象が「あなたの中に」あってそれを守っていると解釈されると、それを解釈する治療者の心の機能によきものの片鱗を感じ、葛藤が生じます。本当に悪い奴は、「私が悪者なのね」なんて言わずに即座に攻撃してくるはずだからです(子どもが親を悪役にして戦いごっこをしているときと、親を本気で怒らせたときの違いが参考になるでしょうか)。

こうして、妄想分裂ポジションにあることに変わりはなくても、対象の位置に揺らぎが生じ、体験している対象関係を自分の空想として考えてみる余地が生まれます。

ところで、この対象の位置という枠組みを導入してみると、「外的世界」とか「外的対象」とかいう用語に関する混乱というか、わかりにくい部分が少し整理されそうです。おそらく、外的対象という用語が、「環境要因」とほぼ同義で使われている場合があると思われます。クライエントの空想上の対象に対して、実際に親がどのような人物であったのか、といった意味です。この場合、「内的対象」という用語は、クライエントが親ないしは相手、対象をどのように思い込んでいるか、という意味で使われるでしょう。

それに対して、対象の位置あるいは地理という枠組みで見ると、内的対象と外的対象をひっくるめてクライエントの空想世界というような意味合いになります。あくまでもクライエントの体験世界において、自分の中に位置づけられている対象が内的対象や内在化された対象、自分の外側に位置づけられている対象が外的対象、ということです。この場合には、「外的対象」は親や重要な相手が現実にどうであったかということとは、直接的には関係ありません。自分の外側にいると体験されている、という意味で「外的」なのです。

内的対象と外的対象に関する正式な定義というのがあるのかどうなのか、どのくらいのコンセンサスが取れているのか、ということは、不勉強ながら私にはわかりません。ただ、いろいろな文献を読んだり、自分が文章を書いたりするときに、「現実の」という意味で「外的」と言っているのか、「自分の外側にいると体験されている」という意味で「外的」と言っているのか、その区別を意識しておくと、いくらか話がわかりやすくなるかもしれません。

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