子どもの様々な状態像―概念の発展と臨床の実際

 さて、前回の記事からだいぶ時間がたってしまいましたが、今回はタビストックで行われた講義とセミナーシリーズの48-55ページ、「自我における切断」というタイトルの下にまとめられた部分を取り上げます。元の文献はこちらです。

Meltzer, D. (1960/1994)Lectures and seminars in Kleinian child psychiatry. Sincerity and Other Works. Karnac. London, 35-89.

この中の48-55ページ、「自我における切断」を取り上げます。一つのタイトルにまとめられていますが、単一の疾患や障害を取り上げているというよりは、当時は分類困難だった様々な子どもの状態像を一挙に取り上げているというセクションです。

では、まず要約してみましょう。

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メルツァーは、ここで取り上げる子どもたちのことを、精神病部分の分裂排除とは違って、パーソナリティの悪い部分や病んでいる部分を分裂排除するのではなく、むしろ発達プロセスや自己の価値ある部分を分裂排除するのだと表現しています。典型例としてイディオ・サヴァンが挙げられていることからもわかるとおり、各機能や特性の発達が一様ではなく、定型的な発達を想定している限りは理解が難しい子どもたちを念頭に置いているようです。

メルツァーが最初に取り上げているのは、「知的制止」や「境界線」、「精神遅滞」、軽度であれば「本当はもっとできる子」などとして紹介されてくるが、実際には知的制止ではなく分裂過程の現われであって、学校環境が母親の身体内部と同一化されて興奮を生じ、学ぶ能力を使えなくなっている子どもたちです。教師は彼らが学んだのかどうかよくわからない、などとされています。

(現在で言えば、学習障害を始めとする認知機能の偏りのある子どもたちでしょうか。分裂過程だと言っているのは、実際に分析で改善したケースがあったからでしょう。おそらく、先天的な認知機能の問題を理解されずに環境との摩擦で増悪した二次障害の部分に分析が効果を発揮したのでしょう。学校という状況の理解が難しく、教師がコミュニケーションの接触感を持ちにくいという意味では、自閉的な子どもも含まれていそうです。)

メルツァーは次々に様々な子どもの例を挙げていきます。まず、運動や身のこなし、立ち居振る舞い、服の着こなしなどが不器用でぎこちない子どもたちです。次に、非常に女の子らしい男の子といった例が性的能力の発達の問題として紹介されています。次は、審美的な観点を持っておらず、対象を淡々とした事実そのものとして扱う子どもたちを挙げます。

(最初の例は自閉スペクトラムの子どもたちの一部に見られるぎこちなさや、感覚統合の問題、2番目の例はトランスジェンダーの問題と、心理的な同一性葛藤の問題、3番目の例は、象徴機能に問題を抱えて対象や経験の情緒的意味合いを考えることが困難な自閉スペクトラムの子どもなどを連想させるように思われます。)

メルツァーは以上に挙げたような様々な子どもたちを、妄想分裂ポジションにおける困難、抑鬱ポジションに向かう過程、抑鬱ポジションにおける困難、という観点から理解しようとします。妄想分裂ポジションにおける困難では、自我の一部の機能が制止されているのは、迫害者の羨望を刺激しないようになだめるためだとされます。

(東大出身者が出身大学を聞かれたときに、「一応、東大です」と、できるだけなんでもないことのようにサラッと小声で言おうとするという反応にも、同様の力動の現われを読み取れるかもしれません)

抑鬱ポジションにおける困難は、よい対象への攻撃になってしまうと感じられている自我機能が制止されることです。脆弱な母親を気遣って性的発達が制止してしまう女性というのが一つの例として挙げられています。

臨床素材は、知的に問題があるように見える8歳の女の子です。彼女は治療者に問答無用の態度で様々な要求をしたり、学校の教師が言ったとおり、やったとおりの振る舞いで治療者を威嚇したりするのですが、メルツァーはこれらを、家や学校や分析セッションの区別がついておらず、同一化が表面的で模倣的と述べています。そして、患者は主に、時計で遊んではいけない、分析セッション以外で会うことはできない、といった構造的原則を治療者が示すことに反応して、「ウンチ」やら「オシッコ」やらの攻撃を繰り出します。しかし、それによって治療者を操作することは、その模倣性、単純性により、あまりうまくいきません。メルツァーは、この攻撃を繰り出すことを転移的接触の回復と見ているようですが、この接触を維持することは困難とも述べています。また、不安の現れにも奥行きや色合いがないとしています。

(状況による暗黙のルールや目的の違いを理解できず、いくつかのパターン的反応を繰り返すしかないといったところは自閉的な傾向を連想させます。このケースは一応、「自我の価値ある部分の分裂排除」というテーマで取り上げられているのですが、メルツァーとしては、本当のところ知的に問題があるわけではなさそうなのに、その割にはあまりにも状況理解ができず、奥行きのないパターン化された振る舞いが繰り返されるというギャップに、本来のポテンシャルがどこかへ置き去りにされているのだろうと考えたのかもしれません。)

この子は知的能力に遅れが見られ、運動の協応にも問題があったようです。服を噛んだり破いたりし、自分の顔も引っ掻き回していました。大人とよく喋りたがるけれども、発音は正確でなく、型にはまった喋り方だったようです。母親が仕事に戻るため9ヶ月で乳母に預けられましたが、妹たちは病気がひどく、母親は看病のために仕事を辞めたそうです。

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要約は以上になります。

このセミナーは、現在であれば様々な発達障害やその二次障害として分類されるであろう状態をまとめて取り上げているので、必然的にテーマ性には欠けています。臨床素材も、当然ながら講義部分を代表するものにはなっていません。理解と対応の困難な子どもたちの例を列挙してみた、という感じでしょうか。

発達障害をはじめとする認知機能や特性の問題を力動的な概念だけで説明するのは無理があります。しかしながら、ここでメルツァーが述べていることを、無知蒙昧な時代の心因論として一笑に付すのは現場を知らない態度と言えるでしょう。

自閉症をはじめとして、発達障害の問題の環境因が過度に強調されたことへの反省として、発達障害は種々の機能の生得的な偏りであり、生物学的要因によるものであるという啓蒙がなされたことは重要でした。しかし、それが一段落して、現在ではそのような発達特性と環境との相互作用があらためて注目されるようになっています。環境が原因というわけでもなく、生得的だから環境は関係ないというわけでもなく、特有の発達特性ゆえの脆弱性や、親にかかる養育上の困難、そのような困難や誤解から生じる二次障害といった現実的かつ切実な問題への注目です。

実際、診断閾下の発達特性上の特徴が理解・対応されずに長年経過し、情緒的な二次障害が自己卑下や諦めといった性格特徴として構造化されてしまっているようなケースは昨今増え続けているように思われます。このようなケースでは、発達特性の特徴による機能上の問題は比較的軽度なために、たとえ診断がついたとしても医療的・福祉的対応では若干ニーズに合わないことも多く、心理療法的対応による生きる意欲の鼓舞や、的確な自己像の描き直しが助けになります。

また、診断閾下の発達特性上の特徴を持った親に長年適応してきたために、自分の本来のコミュニケーション機能の使い方がわからなくなっているというケースにも、よくお会いするようになりました。この場合には、自分の投げかけに対する(的外れではない)相応のレスポンスが返ってくるという、手応えのある対話の経験を提供することが、心理療法の役割の一つとなるでしょう。

メルツァーが取り上げているケースは決して軽度ではありませんが、発達障害の概念が現在ほど精緻化されていなかった時代でもあり、二次障害もかなり複雑化したまま手つかずであったという例も少なくなかったでしょう。そこに分析治療がハマることはあったのではないかと思われます。少なくとも、他とは違った理解なり対応なりが必要な子どもたちがいるという臨床的な直観はあったのでしょう。

概念や技法は時代とともに発展していきますが、人間の在り様のバリエーションは100年単位でそれほど変わるものではありません。昔から発達障害や学習障害と現在呼ばれているような人たちはいたわけですし、臨床家たちも当時から試行錯誤して関わりや治療的アプローチを工夫していたわけです。概念や技法は古くなりますが、現場における日々の臨床家の努力と営為は常に現在進行形です。おそらく、概念は違っても、「こういう子たちの特徴」を掴んでいた臨床家はいたのでしょう。そして、現在私たちが使っている概念や技法も、30年後には古くなっているでしょうし、だからといって、現在の私たちの臨床が無意味になるわけでもないでしょう。

臨床家は常に、今ある概念と技法を使って、それを少しだけ前に進める努力をできるだけですね。

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