「精神病的」と「原始的」

 Sincerity and Other Worksの第3章はタビストック・クリニックで行われた講義とセミナーのシリーズで、本文では50頁以上あるので、何回かに分けたいと思います。まず元の文献はこちらです。

Meltzer, D. (1960/1994)Lectures and seminars in Kleinian child psychiatry. Sincerity and Other Works. Karnac. London, 35-89.

この講義とセミナーシリーズは、子どもの精神医学(とりわけ分析治療)において、初期のセッションからどのくらい診断と予後を見通すことができるか、というアセスメントに関わるテーマを集中的に扱ったものです。今回取り上げるのは、35-48頁まで、序論と概論的講義、そして「精神病」不安についてです。なお、臨床素材を提示している治療者は当時メルツァーのスーパービジョンを受けていたタビストックの面々のようです。

では、まず要約します。

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メルツァーはまず、このシリーズの目的は、子どもの治療の初期において、診断と予後の分類を試みる、つまりアセスメントに関するものであることを明確にし、その際に三つの観点からその分類を試みると述べます。

(1)内的対象関係の性質

(2)防衛の性質(分裂、投影同一化、躁的防衛)

(3)優勢な不安(妄想分裂ポジションか抑鬱ポジションか)

という三つの観点です。つまりクライン派対象関係論の観点です。メルツァーはフロイトが初期のリビドー論から始まって、後にメタサイコロジーを発展させたこと、アブラハムが対象関係論的思考への道を開いたこと、それを継いでクラインが妄想分裂ポジションと抑鬱ポジションの概念を整理したことを足早に振り返ります。

(実際、アブラハムは欲動論における欲動の対象を、対象関係論における対象のように、つまり自我が関係を持つ人物像であるかのように記述していますね)

また、メルツァーはここで対象関係の地理について述べます。これは後に「精神分析過程」においてさらに精緻化して述べられますが、ここではむしろ簡潔にクリアに触れられています。つまり、問題となっている対象関係がどこで展開しているのかについて、

(1)外的世界

(2)外的世界における対象の内側

(3)内的世界

(4)内的世界における対象の内側

の4つを仕分けして理解する必要があるということです。

(これは転移解釈と転移外解釈を有機的に結びつけていくときに真価を発揮する視点かもしれません・・)

次にメルツァーは精神分析的観察(アセスメント)においては、解釈(おそらく転移解釈のこと)を導入すると述べます。これは科学者が実験状況に何らかの変数を導入して他の変数との関連性や変化を観察するのと同様だとされます。

(これは精神分析は非科学的であるという批判に対する一つの答えですが、現在であれば、このような実験状況モデルはむしろ倫理的に避けられるかもしれません。もっと情緒的交流を強調した概念化になるのではないでしょうか・・)

さて、それによって何をアセスメントするかといえば、優勢な不安とそれに対する防衛です。迫害不安か抑鬱不安か。それらに対して分裂や投影同一化などの原始的防衛が用いられるのか、躁的防衛、償いなどのより高次の防衛が用いられるのか。それらが解釈によってどのように動くのか。なお、メルツァーは、「躁的防衛の安全弁による調整を受けながら償いの過程へと続く」というように述べており、躁的防衛を抑鬱ポジションのワークスルーにおけるワンステップと捉えているようです。

(メルツァーが用いる「投影同一化」という用語は、原始的、侵入的、暴力的な性質が強調されているように思われます。それは、ビオンが投影同一化を人間関係において一般的に働いているコミュニケーションメカニズムのように拡大したのに対して、メルツァーは妄想分裂ポジションと結びついた無意識的空想として扱っているからかもしれません。メルツァーが「投影同一化」と対置してよく使う用語が「取入れ同一化」です。これは対象との分離を受け入れた受容的プロセスで、発達論と結びついて「結合両親像の取入れ同一化」のように用いられることもあれば、この講義では患者を理解するための逆転移の土台になっている治療者側の状態として用いられています。後者はビオンの理解に近く、ビオンが言うコミュニケーションとしての投影同一化が機能するための、受け手側の準備状態と言えるでしょうか。)

次に、これをどのようにアセスメントするのかというと、患者と同一化することから生じる逆転移を通じて、ということになります。ここで、逆転移が治療の妨げになるのは投影同一化によってアセスメントしているときであり、それを取入れ同一化に基づく理解と仕分けしておくことが必要だと述べられます。それは、治療者の洞察、技法の逸脱の認識、スーパービジョンなどによって修正されるとされます。

概念的に言えば、転移の構造を以下の観点からアセスメントすることを目指します。

(1)状況の地理

(2)対象関係の性質

(3)そこに結びついている優勢な衝動と性感帯

(4)不安の性質

(5)防衛機制

(6)防衛機制を用いた結果

このように書くと膨大なことを解明しなければならないようですが、治療者が行うのは「解明」ではなく、取入れ過程を通じて治療者自身の内に起こる空想のパターンを観察することだとメルツァーは述べます。その観察が正確かつ豊かになるために、訓練分析と臨床経験が相互に観察眼を高めていくのだと。

ここからは、最初の講義とセミナーに入ります。テーマは「精神病」不安です。メルツァーは、クラインはしばしば、人はみな乳児期に精神病であったと考えていたと誤解されてしまうと述べます。実際、精神分析における「精神病的」という用語は紛らわしく、メルツァーは、統合失調症に関連する不安は「破局的不安」であって、「精神病不安」とは質が異なることを明確にします。破局的不安と、精神病不安と、神経症不安があるわけです。メルツァーは次の三種類の状態の区別を試みます。

(1)精神病

(2)精神病不安が優勢な状態

(3)精神病部分の分裂排除

ここで「精神病」というのは統合失調症的状態を指します。それは自我が防衛的に分裂を用いているのではなく、破局から始まり、自我も対象もまず断片化します。解体した断片は凝塊化してビオンが言う奇怪な対照群を形成します。

これに対して「精神病不安が優勢な状態」とは、自我が様々に分裂を起こしており、自我の各部分の間に健全な絆が形成されていないため、統合への傾向はあってもすぐにバラバラにされてしまいます。対象関係や自我状態は急速に変化するので、外見上は初期統合失調症の易変性と区別がつきにくいこともあります。

「精神病部分の分裂排除」とは、ゾッとするほど安定した構造で、その安定を乱すいかなる統合への動きも残忍なまでに抵抗されます。破壊衝動は対象には投影されず、したがってわるい対象は存在しないようなことになっており、破壊衝動は自己の一区画に深く広く分裂排除され、もはや自己の一部とは認識されなくなっています。この部分は治療が進展してくると、夢においてはまず「心を持たない機械」として、後には「冷血動物」などとして、そして人の形を取るようになると、「よき家族に入ることを許されていない絶望した犯罪者」のように顕れてきます。

メルツァーによれば、成人においては、「精神病部分の分裂排除」なのか、統合失調症後期の妄想構築のように、隠されているけれどもしっかり意識されているものなのかの区別が重要だとされます。

ここからは臨床素材です。8歳の女の子です。ちなみに、この患者は先程の分類で言えば、「精神病不安が優勢な状態」の例として出てきています。素材はその週の3回目のセッションで、これから週末に入って治療者と会えなくなるようです。治療者は一度交代しています。彼女は治療者を見ると喜んで部屋に入り、紙を光にかざして透かしを見つけます。彼女は紙をテーブルに戻し、透かしを見えなくし、「アラジンのランプ」だと言って透かしを線で囲み、また光にかざし、透かしが二つあることに気づきます。

この素材に対するメルツァーのコメントは次のとおりです。彼女は外的によい対象(治療者)がいるときにだけ、内的にもよい対象を感じることができることを示しており、内的迫害者に対抗するために内的対象を万能的に奴隷にしようとします。このジーニー的対象はよい対象とは質が異なるものです。

治療者の解釈「待合室にいるときとか、週末とかに、私に会えるのを待っていると、あなたはこんなふうに言いたくなるんでしょう。「魔法で先生を呼び出すことだってできるんだからね!」って。ジーニーをランプから呼び出すみたいにね。つまり、前の先生がいなくなってしまったのもそうだけど、私もあなたのもとを離れるかもしれないっていうことを認めたくないんでしょう。」

患者はうるさくして解釈の最後の方を妨害し、瓶を取って擦り始めます。

治療者は先程の解釈を繰り返し、治療者を失う脅威を強調します。

患者は乱暴になって「手品を見せてあげる」と言って鉛筆を紙で包み、背中の後ろに隠してどちらの手で持っているか治療者に当てさせます。治療者が間違えるたびに彼女は治療者を蔑むように狂喜乱舞し、治療者はイライラしてきます。

ここでのメルツァーのコメントは次のようです。迫害的な内的人物との強力な同一化が見られ、彼女の不安を投影すべく行動化されています。勝ち誇り、嘲るのは強力な羨望が働いているからで、羨望は治療者に投影されています。

治療者の解釈「あなたは、私があなたを怖がらせるためだけにどっかに行っちゃうと思うんでしょう。それで、さっきあなたの不安を解釈したのは残酷なことで、あなたが怖がるのを笑ってみてるんだって思うんでしょうね」

患者は玩具の箱から動物を取り出し、おとなしい動物を「野営地」の中に、「獰猛な」サルを外に置きました。

治療者の解釈「私がどっかへ行っちゃうのはあなたの凶暴さから逃げるためなんだって思うんですね。どうしていいかわからなくなっちゃうと、自分はますます凶暴になっちゃうって思うものだから」

メルツァーのコメント。この解釈は分裂排除されていた羨望に新たな慰めをもたらしましたが、セッションの終わりが近づいていたので、貪欲なゲームが始まります。そこで患者が愚かな内的母親に同一化していたことが劇化されます。それは貪欲な取り入れの結果なのです。

(これは前回の記事で取り上げた論文でメルツァーが言っていたことですね。羨望が自覚されると、自分には何もないことが怖くなって、急いで貪欲に相手を取り込もうとするので、またしてももらいたかった相手のよさを壊してしまうという苦闘です。)

患者は次から次へと相手の物をひったくるゲームを始めました。そして部屋を出ていき、メガネを鼻の頭に乗っけて、年老いたおバカさんを装って戻ってきました。

さて、臨床素材の提示はここまでです。メルツァーによれば、この患者はよい対象の取り入れと保存ができず、内的迫害から身を守るために男根的な奴隷的対象を万能的に使っているとされます。重篤な迫害不安が優勢な状態で、抑鬱不安に持ちこたえる力は非常に弱く、主として部分対象関係で機能しており、潜在性の妄想性パーソナリティだということです。しかし転移を形成し、よい対象を求める力は強く、統合へ向かう欲動がいくらか見られ、解釈には素早く強力に反応しているとのことです。つまり、重篤な割には内的な資源があり、治療に反応する余地があるということです。

ちなみにこの患者は非嫡出子で母親は未成年で患者を出産したそうです。いくらか母乳育児が行われたものの、18ヶ月で母親は患者への関心を失い、2歳半で里親家庭に入ったとのことです。歯や手を使った破壊行為に手がつけられず、夜尿もあり、学校では学習面でも友達関係の面でも厄介者扱いとなっていたようです。二人の治療者から合計3年半の治療を受け、抑鬱ポジションにかなり持ち堪えられるようになり、行動上も学習面でも相応の改善が見られたそうです。里親の転居によって治療は中断することとなったので、青年期にもう一度治療が必要だろうとされています。

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以上が2番目の講義とケースセミナーまでの要約となります。

前半の導入部分と概論的講義では観察の重要性が強調されています。ただ、逆転移を観察するのだと述べられていることからすれば、行われるのは参与観察です。つまり、関わりながら、関わりの全体を第三者視点で見ているということです。このあたりはよく言われることですね。

概論的講義の最後のところでメルツァーが強調している「治療者自身の内に起こる空想のパターンを観察する」というところが精神分析的あるいは臨床的観察の肝という気がします。つまり、わかるときは一挙にわかるのです。何がわかったのか全て言葉で説明しようとすればあまりに膨大な抽象論になるか、無限の場合分け地獄に陥るかで、空想の生命感が失われてしまうのであまり生産的ではありません。しかし、「空想のパターン」は治療者の内的体験としてあるので、患者やクライエントのどのような反応、言動にも、セッション中のことであれ、現実生活のことであれ、治療上生起するどのような出来事に対しても、何らかの理解が生まれてくるわけです。その源泉は何かといえば、「治療者自身の内に起こる空想のパターン」ということ。

治療者の体験としては、クライエントの言動が読めるわけでもなく、全てわかっているとか、見えているという感覚でもないでしょう。未知の展開に開かれてはいるわけです。しかし、五里霧中というわけでもない。クライエントと関わる中で治療者の中に生起し続けている「空想のパターン」という媒体に、何かしら投げ込んでもらえれば、そこから何かしらは出てくるだろうという、何らかの感覚に根拠を持つ信といったらいいでしょうか。

さて、各論に入って最初の講義とケースセミナーは「精神病」を取り上げています。精神分析に馴染みのない人は、精神分析界隈の人があまりにも簡単に「精神病的だ」と言ってしまうことに戸惑うのはよくあることかもしれません。「だってこの人、統合失調症じゃないよねぇ」というわけです。そのとおりです。

メルツァーはこのあたりの用語の混乱を取り上げて整理しているのですね。クラインが取り組んだのは子どもの分析であり、分裂というのも子どもの体験の不連続性を取り上げたものです。泣いたと思ったら喜んだり、穏やかにミルクを飲んでいたと思ったら急に噛み付いたり、といったところに、その瞬間瞬間で無意識的空想においては関わっている対象が入れ替わっているのだと理解したわけです。それに伴って自分自身も瞬間瞬間で入れ替わったりといったこと。遊びも同様にコロコロ入れ替わる。矛盾したような、急激でとりとめのない展開・・。つまり分化と統合が発達していない「原始的」な状態です。

ところが、この子どもにおける「原始的」な分裂を、精神病圏の患者の病的な解体にも援用したので、筋道だって了解することが困難な様々な状態を「分裂」という言葉でカバーするようになっていったわけです。ここには、クラインは子どもを見ていたが、クライン派は精神病患者を見ていた、という事情も手伝ったのでしょう。しかし、やはり病的な解体と、原始的な統合のなさは違うでしょうということです。

臨床素材に目を移してみると、精神病不安とメルツァーが言っているのは、羨望に基づく攻撃性・破壊性がよい対象関係を破壊してしまうような事態を指しているようで、これは患者の生育歴からもうかがわれるように、外傷性の問題が大きいように見えます。幼少期にここまではっきりと問題が顕在化しない場合、つまり外傷がより微細に、心理的に、継続的に生じていた場合には、よい対象関係への不信から、依存への防衛として自己愛的な組織化が生じているという例にも青年期臨床などを中心に出会うことがあるでしょう。

また、三つ目の分類として出てきている「精神病部分の分裂排除」は、一見安定しているけれども、安定あるいは適応できる範囲は限定的で、除外している領域の刺激が入ると一過性に強烈な反応を起こす、というふうに考えれば、現代的に言えば、外傷的要因が関わっている解離性の問題や、外傷の影響が強く出ている発達障害の問題などを連想させるかもしれません。

当時は使える概念に限界があったとはいえ、表面的な類似性で一緒くたに扱われてしまう問題の中に、質の異なるものが混じっているだろうという問題意識をメルツァーは持っていたのかもしれません。

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